中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて來た所で、
『オヤ。』
と尻上りに叫んで途を披《ひら》いた。
『モウ要《い》らん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章《あたふた》下駄を突懸《つゝか》けて、疾風の樣に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打附《ぶつつ》けた。後では、男女を合せて五六人の高い笑聲が、ドッと許り喊《とき》の聲の樣に聞えた樣であつた。

 二町許り驅けて來ると、セイセイ呼吸が逸《はづ》んで來て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々しさが殘つて居たが、それも空腹には勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅澤屋と云ふ休坂《やすみざか》下の蕎麥屋へ入た。
『お誂へは?』と反齒《そつぱ》の女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顏がチラリと頭に閃いたので、
『何でも可い。』と云つて了つた。
『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏も直ぐ出來ますが。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、その、何《ど》れでも可い。柏でも可い。』
 かくて渠は、一滴の汁も殘さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身體にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら
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