して左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麥屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す豫算があつて借りるのでないから、流石に渠は其家の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反對の側の軒下を歩く。
幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける樣な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いている時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方《どこ》へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
渠は唸る樣な聲を出して、ズキリと立止つて、胡散《うさん》臭く對手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる樣だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合ひさうに近く立つた。
『貴方お一人で何方《どこ》へ?』
『姉の所へ行つて來ましたの。マア貴方は醉つていらつしやるわね。』
『醉つて? 然《さ》うで
前へ
次へ
全78ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング