さいつて、欺《だま》して逃げて來たもんだから、野村さんに追驅けられたのよ』
『然《さう》うでしたか』
 野村は、發作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に、此次には屹度ですよ、屹度|施《か》かけまよ。』と變に硬張《こはゞ》つた聲で云つて、物凄く「アッハハ。」と笑つたが、何時持つて來たとも知れぬ卓子《テーブル》の上の首卷と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して來たのであつた。

 脈といふ脈を、アルコールが驅け※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、血の循環が沸《たぎ》り立つ程早い。さらでだに苛立勝《いらだちがち》の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる樣な大|時化《しけ》を喰つて、唯モウ無暗に神經が昂奮《たかぶ》つて居る。野村は頤を深く首卷に埋めて、何處といふ目的もなく街から街へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り歩いて居た。
 女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤《いきどほ》つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました
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