ほんと》ですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。
 渠は唯唸る樣な聲を出しただけで、チラと女の顏を見たつきり、凄じい勢ひで戸外《そと》へ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顏が例の烈しい痙攣《ひきつけ》を起して居る。少なからず醉つて居るので、吐く呼氣《いき》は酒臭い。
 戸外はモウ人顏も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面だけ凍りかかつて、夥しく歩き惡い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴に昂奮した調子で歩き出した。
「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて來て貸すと云つた! 本? 否俺は本など一册も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎《どう》でも可いさと口に出して呟いたが、何故《なぜ》那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》事云つたらうと再《ま》た考へる。
 渠は二時間の間此病院で過した。煙草を喫みたくなつた時、酒を飮みたくなつた時、若い女の華やいだ聲を聞きたくなつた時、渠は何日《
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