の勞働大臣さ。』
『然うですか。怎《どう》も慣れませんもので。』
これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顏を眞赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎《どう》う書きませう。」と小聲で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然《さ》うですか、怎《どう》も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハッとしたが、長野は「然《さ》うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顏を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後毎日東京や札幌の新聞を讀めと長野に云つて、
『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髮店の亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を讀んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議會の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞に載つてるし、毎日新聞さへ讀んでれば電報の譯せんことがない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に來た電報の「北海道官有林附與問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。」
長野の眞赤にした大きい顏が、霎時《しばらく》渠の眼を去らないで、悠然として笑を續けさせて居た。
それから渠は、種々《いろ/\》と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乘込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて來るには、何かしら其處に隱された事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして來たんだらう。然《さ》うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、殘りは二三日と云つたのが、到頭十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた[#「居つた」は底本では「居たつた]外、これぞと思ふ事も思出せなかつた。
竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが、……アノ眞白な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。醫者の小野山も殆んど憎くない。不圖したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些《ちつ》とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく。けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ、彼女の擧動はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に觸れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面こそ處女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃。……
十時の時計を聞くと、渠は勘定を濟ませて蕎麥屋から出た。休坂《やすみざか》を上つて釧路座の横に來ると、十日程前に十軒許り燒けた火事跡に、雪の中の所々から、眞黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬が泳いでる樣に。
少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其窓際へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた。白い窓掛に手の影が移つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ歸らないの?』
と優しい低い聲で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが『マア野村さんですか。姐さん達は十二時でなくちや歸りませんの。』
これは彼がよく遊びに行く藝者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《おば》さん」と呼ぶ此女を雇つて萬事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰氣な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先程から氣が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ氣がした。
『又來るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓際を離れて、「主婦《おかみ》はモウ大丈夫寢たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、右は高くなつた西寺と呼ぶ眞宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も眞暗になつて居る。渠は成るべく音のしない樣に、入口の硝子戸を開《あ》けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框の障子をも開けて閉てた。此室《こゝ》は長火鉢の置いてある六疊間。亭主は田舍の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に當る十六の少年と、三人の女兒とが、此室《こゝ》
前へ
次へ
全20ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング