んで了つた。
 間もなく下では何か物に驚いた聲がして、續いて笑聲が起つたが、渠は「敷島」を美味《うま》さうに吹かしながら、呼吸を深くして腹を凹ましたり、出したり、今日位腹を減らした事がないなどと考へて居た。
 所へ階段を上る音がしたので、來たナと思つたから、腹の運動を止めて何氣ない顏をしてると、以前の若い男が小腰を屈めて障子を明けた。
『ヘイ、これは旦那のお足袋ぢや厶いませんか? 鼠が落《おつ》こちたかと思つたら、足袋が降つて來たと云ふので、臺所ぢや貴方、吃驚《びつくり》いたしましたんで。ヘイ、全く、怎《どう》も、ヘイ。』と、妙な薄笑ひをし乍ら、今し方壁の鼠穴へヘシ込んだ許りの濡れた古足袋を、二つ揃へて敷居際に置いたなり、障子を閉めて狐鼠々々《こそ/\》下りて行く。
 呆然として口を開いた儘聞いて居た渠は、障子が閉まると、クワッと許り上氣して顏が火の出る程赤くなつた。恥辱の念と憤怒の情が、ダイナマイトでも爆發した樣に、身體中の血管を破つて、突然《いきなり》立上つたが、腹が減つてるのでフラフラと蹌踉《よろめ》く。
 よろめく足を踏み耐へて、室から出ると、足音荒く階段を下りて來たが、例の女中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて來た所で、
『オヤ。』
と尻上りに叫んで途を披《ひら》いた。
『モウ要《い》らん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章《あたふた》下駄を突懸《つゝか》けて、疾風の樣に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打附《ぶつつ》けた。後では、男女を合せて五六人の高い笑聲が、ドッと許り喊《とき》の聲の樣に聞えた樣であつた。

 二町許り驅けて來ると、セイセイ呼吸が逸《はづ》んで來て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々しさが殘つて居たが、それも空腹には勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅澤屋と云ふ休坂《やすみざか》下の蕎麥屋へ入た。
『お誂へは?』と反齒《そつぱ》の女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顏がチラリと頭に閃いたので、
『何でも可い。』と云つて了つた。
『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏も直ぐ出來ますが。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、その、何《ど》れでも可い。柏でも可い。』
 かくて渠は、一滴の汁も殘さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身體にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら滑稽になつてつい口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩附《いひつ》けた。
 それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい樣だけれど、モウ腹が大分張つて來たので、止めた。と、眠氣が催すまでに惡落着がして來て、悠然と改めて室の中を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻に喫ひながら、到頭ゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》具合にして渠は、階下《した》の時計が十時を打つまで、隨分長い間此處に過した。一度、手も拍たぬのに女中が來て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ歸つて呉れと云ふ謎だと氣が附いたけれど、悠然《ゆつたり》と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。
 恁《かく》許り悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顏には例の痙攣《ひきつけ》も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか惡とか云ふ事も全く腦裡から消えて了つて、渠はそれからそれと靜かに考へを※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモット金を取るべきかと云ふ問題であつた。それに自分一人よりも相棒のある方は都合が可いと考へついたので、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。
 と、渠はその長野の馬鹿に氣の利かぬ事を思出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の飜譯を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、
『ええ一寸伺ひますが、……怎《どう》もまだ慣れませんで(と申譯をしておいて、)カンカインとは怎《どう》かくんでせうか。』
『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、
『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない樣ですけれど。』
『無い。』
『然うですか喃。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけれど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』
『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて『何だ、「加奈太大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ來た加奈太政府
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