つた。
 さてこれから怎《どう》したもんだらう? と考へたが、二三件向うに煙草屋があるのに目を附けて、不取敢《とりあへず》行つて、「敷島」と「朝日」を一つ宛買つて、一本點《つ》けて出た。モ少し行くと右側の狹い小路の奧に蕎麥屋があるので、一旦其方へ足を向けたが、「イヤ、先づ竹山へ行つて話して置かう。」と考へ附いて、引返して旅館の角を曲つたが、一町半許りで四角になつて居て、左の角が例の共立病院、それについて曲ると、病院の横と向合つて竹山の下宿がある。
 竹山の室は街路《みち》に臨んだ二階の八疊間で、自費で据附けたと云ふ煖爐《ストーブ》が熾んに燃えて居た。身の※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りには種々の雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は讀みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、渠は入ると直ぐ、ボーツと顏を打つ暖さに又候思出した樣に空腹を感じた。來客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マシヨマローと何やらが堆《うづた》かく盛つて、煙草盆の側にあるのが目に附く。明るい洋燈《ランプ》の光りと烈しい氣象の輝く竹山の眼とが、何といふ事もなしに渠の心を狼狽させた。
『頭痛が癒りましたか?』と竹山に云はれた時、その事はモウ全然《すつかり》忘れて居たので、少なからず周章《どぎまぎ》したが、それでも流石、
『ハア、頭ですか? イヤ今日は怎《どう》も失體しました。あれから向うの共立病院へ來て一寸|診《み》て貰ひましたがねす。ナニ何でもない、酒でも飮めば癒るさッて云ふもんですから宿へ歸つて今迄寢て來ました。主婦《おかみ》の奴が玉子酒を拵へてくれたもんですから、それ飮んで寢たら少し汗が出ましたねす。まだ底の方が些と痛みますどもねす。』と云つて、「朝日」を取出した。『少し聞き込んだ事があつたんで、今※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて探つて見ましたが、ナーニ嘘でしたねす。』
『然《さ》うかえ、でもマア悠乎《ゆつくり》寢《やす》んでれば可《よ》かつたのに、御苦勞でしたな。』
『小宮と云ふ洋服屋がありますねす。』と云つて、野村は鋭どい眼でチラリと竹山の顏を見たが、
『彼家《あそこ》で去年の暮に東京から呼んだ職人が、肋膜に罹つて遂此間死にましたがねす。それを其、小宮の嚊が、病氣してゝ稼がないので、ウンと虐待したつて噂があつたんですから、行つて見ましたがねす。』
『成程。』と云つたが、竹山は平日《いつも》の樣に念を入れて聞く風でもなかつた。
『ナーニ、恰度アノ隣の理髮店《とこや》の嚊が、小宮の嚊と仲が惡いので、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事を云ひ觸したに過ぎなかつたですよ。』と云つて、輕く「ハッハハハ。」と笑つたが、其實渠は其噂を材料に、幸ひ小宮の家は、一寸有福でもあり、「少くも五圓」には仕ようと思つて、昨日も一度押かけて行つたが、亭主が留守といふので駄目、先刻又行つて、矢張亭主は居ないと云つたが、嚊の奴頻りにそれを辯解してから、何れ又|夫《やど》がお目にかゝつて詳しく申上げるでせうけれどもと云つて、一圓五十錢の紙包を出したのだ。
 これと云ふ話も出なかつたが、渠は頻りに「ねす」を振※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]はして居た。一體渠は同じ岩手縣でも南の方の一ノ関近い生れで、竹山は盛岡よりも北の方に育つたから、南部藩と仙台藩の区別が言語の調子にも明白で、少しも似通つた所がないけれども、同縣人といふ感じが渠をしてよく國訛りを出させる。それに又渠は、其國訛りを出すと妙に言語が穩《おとな》しく聞える樣な氣がするので、目上の者の前へ出ると殊更「ねす」を澤山使ふ癖があつた。
 程なくして渠は辭して立つたが、竹山は別に見送りに立つでもなかつた。で、自分一人室の中央に立上ると、妙に頭から足まで竹山の鋭い眼に度《はか》られる樣な心地がして、疊觸りの惡い自分の足袋の、汚なくなつて穴の明いてるのが恥しく思はれた。
 戸外《そと》へ出ると、一寸病院の前で足を緩めたが、眞砂町へ來るや否や、早速新らしい足袋を買つて、狹い小路の奧の蕎麥屋へ上つた。
 二階の四疊半許りの薄汚ない室、座蒲團を持つて入つて來たのが、女中でなくて、印半纏を着た若い男だつたので、渠は聞えぬ程に舌打をしたが、「天麩羅二つ。」と吩附《いひつけ》てやつてドシリと胡坐をかくと、不取敢《とりあへず》急がしく足袋を穿き代へて、古いのを床の間の隅ツこの、燈光《あかり》の屆かぬ暗い所へ投出した。「敷島」を出して成るべく悠然《ゆつくり》と喫ひ出したが、一分經つても、二分過ぎても、まだお誂へが來ない。と、渠は立つて行つて其古足袋を、壁の下の隅に、大きな鼠穴が明いてる所へヘシ込
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