醉が全然《すつかり》醒めて了つて、緩《ゆる》んだと云つても零度近い夜風の寒さが、犇々と身に沁みる。頤を埋めた首卷は、夜目にも白い呼氣を吸つて、雪の降つた樣に凍つて居た。雲一つない鋼鐵色の空には、鎗の穗先よりも鋭い星が無數に燦いて、降つて來る光が、凍り果てた雪路の處々を、鏡の缺片《かけら》を散らした樣に照して居た。
 三度目か四度目に市廳坂を下りる時、渠は辷るまいと大事を取つて運んで居た足を不圖留めて、廣々とした港内の夜色を見渡した。冷い風が喉から胸に吹き込んで、紛糾した頭腦の熱さまでスウと消える樣な心地がする。星明りに薄《うつす》りと浮んだ阿寒山の雪が、塵も動かぬ冬の夜の空を北に限つて、川向の一區域に燈火を群がらせた停車場から、鋭い汽笛が反響も返さず暗を劈《つんざ》いた。港の中には汽船が二艘、四つ五つの火影がキラリ/\と水に散る。何處ともない波の音が、絶間もない單調の波動を傳へて、働きの鈍り出した渠の頭に聞えて來た。
 と、渠は烈しい身顫ひをして、又しても身を屈ませ乍ら、大事々々に足をつり出したが、遽かに腹が減つて來て、足の力もたど/\しい。喉から變な水が沸いて來る。二時間も前から鳩尾《みぞおち》の所に重ねて、懷に入れておいた手で、襯衣《シヤツ》の上からズウと下腹まで摩つて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。彼はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して來た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飮んで鯣の焙《あぶ》つたのを舐《しやぶ》つた限《きり》なのだ。 
 淺間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越下宿料を一文も入れてないので、五分と顏を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦の面が厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、晝飯は無論食はず、社から退《ひ》けても宿へ歸らずに、夕飯にあり附きさうな家を訪ね※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、斷られるまでは蕎麥屋牛鍋屋の借食をする。それも近頃では殆ど八方塞がりになつたので、少しの機會も逸さずに金を得る事許り考へて居るが、若し怎しても夕飯に有附けぬとなると、渠は何處かの家に坐り込んで、宿の主婦の寢て了ふ十時十一時まで、用もない茶呑談《ちやのみばなし》を人の迷惑とも思はぬ。十五圓の俸給は何處に怎使つて了ふのか、時として二圓五十錢といふ疊附の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、殘餘《あと》が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
 餓えた時程人の智《かしこ》くなる時はない。渠は力の拔けた足を急がせて、支廳坂を下りきつたが、左に曲ると兩側の軒燈《ともしび》明るい眞砂町の通衢《とほり》、二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで來ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方《むかう》から來た外套の頭巾の目深い男を遣過すと、不圖|後前《あとさき》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、ツイと許り其旅館の隣家の軒下に進んだ。硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛《カーテン》に洋燈《ランプ》の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗りの看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
 渠は突然《いきなり》其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭《くつきり》と垂帛《カーテン》に映つて居た。
 此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。

 三十分許り經つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々お出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の聲と共に野村は戸外《そと》へ出て來た。
 十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧つたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々《ゆる/\》歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から洩れる火光《あかり》に披《ひら》いて見たが、
『何だ、唯《たつた》一圓五十錢か!』
と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二圓! 少くとも五圓は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ樣にブツ/\云つて、チヨッと舌打したが、氣が附いた樣に急がしく周圍《あたり》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]した。それでも渠は珍らしさうに五十錢銀貨三枚を握つて見て、包紙は一應|反覆《ひつくりかへ》して何か書いてあるかと調べた限《き》り、皺くちやにして捨てて了つたが、又袂を探してヘナ/\になつた赤いレース絲で編んだ空財布を出して、それに銀貨を入れて、再び袋に納《しま》
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