に重なり合ふ樣になつて寢て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顏を踏附ける事もなく、壁際を傳つて奧の襖を開けた。
 此室《こゝ》も又六疊間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々樂書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに點《とも》つて居た。不取敢《とりあへず》その※[#「心/(心+心)」、135−上−6]を捻上げると、パッと火光《あかり》が發して、暗に慣れた眼の眩しさ。天井の低い薄汚ない室の中の亂雜《だらしなさ》が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顏を顰蹙《しか》めて、火鉢の火を啄《ほじく》つた。
 同宿の者が三人、一人は入口の横の三疊を占領してるので、渠は郵便局に出て居る佐久間といふ若い男と共に此六疊に居るのだ。佐久間はモウ寢て居て、然も此方へ顏を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然《すつかり》閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顏を眺めて、聞くともなく其寢息を聞いて居たが、何かしら恁う自分の心が冷えて行く樣な氣がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寢るが、俺も然《さ》うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
 煙草に火をつけたが、怎《どう》したものか美味《うま》くない。氣がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか殘つて居なかつた。馬鹿に喫《の》んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄り乍ら、急いで先《せん》ののを、然も吸口まで燒ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程|美味《うま》くない。口が荒れて來たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は澁い顏をして、それを灰に突込んだ。
 眼を閉ぢずに寢るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顏を見た。すると、自分が一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ氣がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寢顏を睨め出した。寢息が段々急しくなつて行く樣な氣がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
 何だ馬鹿々々しいと氣のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に兩腕を突張つて我ながら恐ろしい形相をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顏が熱《ほて》つて居たものと見えて、血が頭から[#「頭から」は底本では「から頭」]スウと下りて行く樣な氣がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎《どう》して恁《か》う時々、淺間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが輕蔑される、…………
 止度もなく、自分が淺間しく思はれて來る。限りなく淺間しいものの樣に思はれて來る。顏は忽ち燻《くす》んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲はれる程厭な事はない。
 と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟の間には、主婦《おかみ》が起きて來るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寢返りをしただけと見えて、立つ氣配《けはひ》もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寢言を言ふ聲がする。漸《やつ》と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
 處々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡《かた》がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰《は》み出してる。ズーッと其等を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]す渠の顏には何時しか例の痙攣《ひきつけ》が起つて居た。
 噫、淺間しい! 恁《か》う思ふと渠は、ポカンとして眠つて居る佐久間の顏さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
 埃だらけの硯、齒磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鐵筆《ペン》に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一册の帳面がある。表紙には『創世乃卷』と氣取つた字で書いて、下には稍小さく「野村新川。」
 渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披《ひら》いた。
 これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日横山に吹聽した、其所謂六ケ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初發の曉から日一日と成された絶大なる獨一眞神の事業を謳つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由來を叙し、其掟られたる永遠の運命を説いて、最後の卷には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根
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