男は、前より俛首《うなだ》れて、空氣まで凍つた樣な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。

 翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ビクリビクリと痙攣《ひきつけ》が時々顏を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲勞の壓迫が、重くも頭腦に被さつて居る。胸の底の底の、ズット底の方で、誰やら泣いて居る樣な氣がする。
 氣が拔けた樣に※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、煖爐《ストーブ》を取圍いて、竹山が何か調子よく話して居た。
 野村も其煖爐に近づいた時、見知らぬ男が立つて禮をした。渠も直ぐ禮を返したが、少し周章氣味《あわてぎみ》になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才氣の輝いた、皮膚《はだ》滑かに苦味走つた顏。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
 渠は電光の如く主筆の顏を偸視《ぬすみみ》たが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。
『ハア然《さ》うですか。』と挨拶はしたものの、總身の血が何處か一處に塊つて了つた樣で、右の手と左の手が交る交るに一度宛、發作的にビクリと動いた。色を變へた顏を上げる勇氣もない。
『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷りながら論文を書くなんか、アノ温厚な人格に比して怎《どう》やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談り出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何處かの新聞社に居た人の話らしい。
『然う然う、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》癖がありましたね。一體|一寸々々《ちよい/\》奇拔な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。
『那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あゝ》いふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容《はさ》んだ。『アレでも
前へ 次へ
全39ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング