「ウヽ」と聲がしたので、電氣に打たれた樣に、全身の毛を逆立てた。渠の聲が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐しき物を見る樣に、佐久間の寢顏を凝視《みつ》めた。眠れりとも、覺めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奧から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………
野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神樣!」と心で叫んで居る。襖を開けたも知らぬ。長火鉢に躓《つまづ》いたも知らぬ。眞暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外《そと》へ飛出した。
西寺の横の坂を、側目も振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳の上に、冷い冷い涙が、頬を傳つてポタリポタリと落つる。「神樣、神樣。」と心は續け樣《ざま》に叫んで居る。坂の上に鋼鐵色の空を劃《かぎ》つた教會の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。
十二時半頃であつた。
寢る前の平生《いつも》の癖で、竹山は窓を開けて、煖爐《ストーブ》の火氣に鬱した室内の空氣を入代へて居た。闃《げき》とした夜半の街々、片割月が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い處でゴウゴウと鳴つて居る。
直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パッと火光《あかり》が射して、白い窓掛《カーテン》に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が惡くなつたのだらうと思つて見て居る。
と、眞砂町を拔ける四角から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首《うなだ》れて歩いて來る。竹山は凝と月影に透して視て居たが、怎《どう》も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首卷も卷いて居ない。
其男は、火光《あかり》の射《さ》した窓の前まで來ると、遽かに足を留めた。女の影がまた瞬時《しばらく》窓掛《カーテン》に映つた。
男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
一分も經《た》つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い彈機《ばね》に彈かれた樣に、五六歩窓際を飛び退《ずさ》つた。「呀《あ》ツ」と云ふ女の聲が聞えて、間もなく火光《あかり》がパッと消えた。窓を開けようとして、戸外《そと》の足音に驚いたものらしい
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