若い時分には隨分やつたもので、私の縣で自由民權の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。學問があり演説は巧いし、剩《おまけ》に金があると來てるから、宛然《まるで》火の玉の樣に轉げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八萬の財産が國會開會以前に一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』
『全く惜しい人です喃《なあ》、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻《くちぶり》。
野村は到頭|恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》話に耐へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて煖爐《ストーブ》にあたると、受附の廣田が「貴方新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]になつた。」と自分の破れた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷さを、解版臺の傍に立つて見惚れて居ると、「貴方は氣が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿彌陀鬮《あみだくぢ》をやつてお菓子を買はうと云う相談をして居て、自分を見ると「野村さんにも加擔《かた》ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も來て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機《ロール》には、白い布が被けてあつた。便所へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺でなく[#「でなく」は底本では「なでく」]、豫て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造の男が頻りに洋燈《ランプ》掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷《や》めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ惡氣《さむけ》を感じた。何處へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に踉《つ》いて來る。胸の中には絶望の聲――「今度こそ眞當《ほんたう》の代人《かはり》が來た。汝《きさま》の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる樣な氣がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ來ないのか、君!』
と廣田に聞いて見た。
『モウ先刻《さつき》に來て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだが、と思つたが、出て行く所の話ぢやない、編輯局に入ると
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