拭つて腰を据ゑると、今迄顏が熱《ほて》つて居たものと見えて、血が頭から[#「頭から」は底本では「から頭」]スウと下りて行く樣な氣がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎《どう》して恁《か》う時々、淺間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが輕蔑される、…………
止度もなく、自分が淺間しく思はれて來る。限りなく淺間しいものの樣に思はれて來る。顏は忽ち燻《くす》んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲はれる程厭な事はない。
と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟の間には、主婦《おかみ》が起きて來るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寢返りをしただけと見えて、立つ氣配《けはひ》もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寢言を言ふ聲がする。漸《やつ》と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
處々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡《かた》がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰《は》み出してる。ズーッと其等を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]す渠の顏には何時しか例の痙攣《ひきつけ》が起つて居た。
噫、淺間しい! 恁《か》う思ふと渠は、ポカンとして眠つて居る佐久間の顏さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
埃だらけの硯、齒磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鐵筆《ペン》に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を赤いリボンで厚く綴ぢた、一册の帳面がある。表紙には『創世乃卷』と氣取つた字で書いて、下には稍小さく「野村新川。」
渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披《ひら》いた。
これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日横山に吹聽した、其所謂六ケ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初發の曉から日一日と成された絶大なる獨一眞神の事業を謳つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由來を叙し、其掟られたる永遠の運命を説いて、最後の卷には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根
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