ても此次だ、今夜は成功しかねたが此次、此次、……
 だが、モウ五分間アノ儘で居たら? 然う/\、俺が出て來る時何とか云つた。ハテ何だつたらう? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》「約束を忘れるな。」か! 「約束」は適切だ。女といふものは一體、男に憎まれる事が嫌ひなものだ。況んや自分の嫌つても居ない男にをやだ。殊に俺は新聞記者だ、新聞記者に憎まれたら最後ぢやないか。幸ひに竹山の奴まだ土地の事情に眞暗だ。俺が云ひさへすれば何でも書く。彼奴に書かしたら又、素的に捏ね※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して書くからエライ事になる。イヤ待て、待て、若しも竹山がアノ病院に出入する樣になるとしたら、然《さ》うだ、矢張一番先に梅野に眼をつけるに違ひない。竹山の下宿は病院の直ぐ前だ。待て/\、此次は明日の晩にしよう。善は急げだ。
 若し小野山さへ來なかつたら、と考へが再《また》同じ所に還る。アノ卓子《テーブル》が無かつたら怎だつたらう? 否、アノ卓子《テーブル》を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎《どう》だつたらう? 女は二三歩後にたじろぐ。そして輕く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁《さゝや》いて、暗の中から眞白な手を延べる。……噫、彼奴、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が來た許りに……。
 渠は恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》事を止度《とめど》もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的《あて》もなく唯町中を彷徨《うろつ》き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居た。何處から怎《どう》歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に驅けずり※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。
 が、渠は矢張明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭腦が紛糾《こんがら》かつて四邊《あたり》を甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》人が行かうと氣にも止めなかつたに不拘《かゝはらず》、時として右側に逸《そ》れ、時と
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