さいつて、欺《だま》して逃げて來たもんだから、野村さんに追驅けられたのよ』
『然《さう》うでしたか』
野村は、發作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に、此次には屹度ですよ、屹度|施《か》かけまよ。』と變に硬張《こはゞ》つた聲で云つて、物凄く「アッハハ。」と笑つたが、何時持つて來たとも知れぬ卓子《テーブル》の上の首卷と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して來たのであつた。
脈といふ脈を、アルコールが驅け※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて、血の循環が沸《たぎ》り立つ程早い。さらでだに苛立勝《いらだちがち》の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる樣な大|時化《しけ》を喰つて、唯モウ無暗に神經が昂奮《たかぶ》つて居る。野村は頤を深く首卷に埋めて、何處といふ目的もなく街から街へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り歩いて居た。
女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤《いきどほ》つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました。酒を飮ますのが何だ。失敬だ、不埒だ。用も無いのに俺を探す。默つて自分の室に居れば可いぢやないか。默つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不圖したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と處を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且夫れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて來て、自分の計畫を全然打壞したのは醫者の小野山に違ひない。小野山が不埒だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。……
知らぬ獸《けもの》に邂逅《でつくわ》した山羊の樣な眼をして、女は卓子《テーブル》の彼方《むかう》に立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些《ちつ》とも見えなかつた。然うだ、吃驚《びつくり》したのだ。唯|吃驚《びつくり》したのだ。尤も俺も惡かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。餘り性急《せつかち》にやつたから惡い。それに今夜は俺が醉つて居た。醉つた上の惡戲と許り思つたのかも知れぬ。何にし
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