して左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麥屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す豫算があつて借りるのでないから、流石に渠は其家の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反對の側の軒下を歩く。
 幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける樣な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いている時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方《どこ》へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
 渠は唸る樣な聲を出して、ズキリと立止つて、胡散《うさん》臭く對手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる樣だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合ひさうに近く立つた。
『貴方お一人で何方《どこ》へ?』
『姉の所へ行つて來ましたの。マア貴方は醉つていらつしやるわね。』
『醉つて? 然《さ》うです、少し飮《や》つて來ました。だが女一人で此路は危險《けんのん》ですぜ。』
『慣《な》れてますもの。』
『慣《な》れて居ても危險は矢張危險ぢやないですか。危險! 若しかすると恁《か》うしてる所へ石が飛んで來るかも知れません、石が。』と四邊を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、一町程|先方《むかう》から提燈が一つ來るので、渠は一二歩|後退《あとしざ》つた。『僕だつて一人歩いてると、チト危險な事があります。』
『マア。ですけれど今夜は、宅が風邪の氣味で寢《やす》んでるもんですから、厭だつたけど一人行つて來ましたの。』
『然《さ》うですか。』と云つたが、フン、宅とは何だい、俺の前で嚊《かゝあ》ぶらなくたつて、貴樣みたいな者に手をつけるもんか。と云ふ氣がして、ツイと女を離れたなり、スタ/\驅け出した。腥《なまぐ》さい笑に眼は暗ながらキラ/\光つて居た。
 恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》風に、彼は一時間半か二時間の間、盲目滅法《めくらめつぽう》驅けずり※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居たが、其間に
前へ 次へ
全39ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング