い。』
 長野が牛の樣な身體を慇懃《いんぎん》に運んで机の前に出て『アノ商況で厶いますな。』揉み手をする。
『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』
『イヤソノ、今日は何も材料がありませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港《はひ》つたのは、昨日だつたか一昨日だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて來た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位いのものだが――を書くことにしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打となつたらうと思ひますがねす。』
『遂聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり[#「きまり」に傍点]惡げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪が唯《たつた》一つ厶いました。今書いて差上げます。』
と硯箱の蓋をとる。
 野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖|美味《うま》さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれども、些とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の變りがなかつた。軈てまた机に就いて、成るべく厭に見える樣に顏を顰蹙《しか》めたり後腦を押へて見たりし乍ら、手帳を繰り始めたが、不圖髭を捻つて居る戸川課長の顏を思出した。課長は今日俺の顏を見るとから笑つて居て、何かの話の序にアノ事――三四日前に共立病院の看護婦に催眠術を施《か》けた事を揶揄《からか》つた。課長は無論唯若い看護婦に施《か》けたと云ふだけで揶揄《からか》つたので、實際又醫者や藥劑師や他の看護婦の居た前で施《か》けたのだから、何も訝《をか》しい事が無い。無いには無いが、若しアノ時アノ暗示を與へたら怎うであつたらう、と思ふと、其梅野といふ看護婦がスッカリ眠つて了つて、横に臥《たふ》れた時、白い職服《きもの》の下から赤いものが喰み出して、其の下から圓く肥つた眞白い脛《はぎ》の出たのが眼に浮んだ。渠は擽《くす》ぐられる樣な氣がして、俯向いた儘變な笑を浮べて居た。
 上島は燐寸《マッチ》を擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程|喫《の》みたくなつて、『君は何日でも[#「も」は底本では「は」]煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう
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