聲が耳に入つた。
『ハア、支廳長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』
『今朝の一番汽車か?』
『ハア、札幌の道廳へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』
『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』
『ハア居ります。』
野村は我乍ら可笑しい程狼狽へたと思ふと、赫と血が上つて顏が熱《ほて》り出して、澤山の人が自分の後に立つて笑つてる樣な氣がするので、自暴《やけ》に亂暴な字を五六行息つかずに書いた。
『じゃ君、先刻の話を一應戸川に打合せて來るから。』
と竹山に云つて、主筆は出て行つた。「先刻の話」と云ふ語は熱して居る野村の頭にも明瞭《はつきり》と聞えた。支廳の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を擧げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。
『君は大變顏色が惡いぢやないか。』と竹山が云つた。
『ハア、怎《どう》も頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆を擱《お》いて立つ。
『そらア良くない。』
『書いてると頭がグルグルして來ましてねす。』と煖爐《ストーブ》の方へ歩き出して、大袈裟に顏を顰蹙《しか》めて右の手で後腦を押へて見せた。
『風邪でも引いたんぢやないですか。』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。
『風邪かも知れませんが、……先刻《さつき》支廳から出て坂を下りる時も、妙に寒氣《さむけ》がしましてねす。餘程|温《ぬく》い日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の邊まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒《どうぞ》一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉《のど》も少し變だどもねす。』
『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料は話して貰つて僕が書いても可いです。』
『ハア、些《ちつ》と許りですから。』
込絡《こんがら》かつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて來た。上島は平日《いつ》にない元氣で、
『愈々漁業組合が出來る事になつて、明日有志者の協議會を開くさうですな。』
と云ひ乍ら直ぐ墨を磨り出した。
『先刻社長が見えて其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事を云つて居た。二號|標題《みだし》で成るべく景氣をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は單に報道に止めて、此方の意見は二三日待つて見て下さ
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