れは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない、必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張《やつぱり》同じ所にポツチリとして居る。一体何処の港を何日立ツて、何処の港へ行く船だらうと、再《また》繰返して考へた。錨を抜いた港から、汽笛と共に揺《ゆる》ぎ出て、乗ツてる人の目指す港へ、船首《へさき》を向けて居る船には違《ちがひ》ない。
『昨日君の乗ツて来た汽船は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』
『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と、仰向の男が答へる。
『名前がさ』
『知らん。』
『知らん?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『自分の乗ツた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顔を上げて、たしなめる様に仰向の男を見る。
『だからさ。』
『君は何時でも其調子だ。』と苦い顔をしたが、『あれア陸奥丸《むつまる》です。随分汚ない船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。
『あ、陸奥ですか。あれには僕も一度乗ツた事がある。余程《ようぽど》以前《まへ》の事《こつ》たが………………………』
『船員は、君、皆《みんな》男許りな様だが、あら怎《どう》したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。
 胡坐の男は沖の汽船から目を離して、躯を少し捻つた。『…………さうさね。海上の生活には女なんか要らんぢやないか。海といふ大きい恋人の胞《はら》の上を、縦横自在に駛《か》け廻るんだからね。』
『海といふ大きい恋人! さうか。』と復《また》仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顔を圧して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後か、それさへも知る由のない大気の重々しさ。
 胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨《タバコ》を一本とツて、チヨと燐寸《マツチ》を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅《き》えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく発した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹《へこ》ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散ツて見えなくなる。
 黙つて此様を見て居た忠志君の顔には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて来るのか、何様渋い翳《くも》が漲ツて、眉間《みけん》の肉が時々
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