。頭脳に弾機《ばね》の無い者は、足に力の這入《はい》らぬ歩行《あるき》方をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、処嫌はず気取ツた身振をする、心は忽ち蕩《とろ》けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成《なるべく》真面目腐ツてやる。何よりも美味《うま》い物が好《すき》で、色沢《いろつや》がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顔の血色がよい。
蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨《たばこ》の煙をゆるやかに吹いて、静かに海を眺めて居る。凹《くぼ》んだ眼窩《めつぼ》の底に陰翳《くもり》のない眼が光ツて、見るからに男らしい顔立《かほだて》の、年齢《とし》は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫《すこし》もない、さればと云ツて、心欝した不安の状《さま》もなく、悠然《ゆつたり》として海の広みに眼を放《や》る態度《こなし》は、雨に曝《さら》され雪に撃たれ、右から左から風に攻められて、磯馴の松の偏曲《ひねくれ》もせず、矗乎《すつく》と生ひ立ツた杉の樹の様に思はれる。海の彼方には津軽の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天|髣髴《はうふつ》の辺《あたり》にポツチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛《はし》ツて居るには違ひないが、此処から見ては、唯ポツチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方《こつち》へ来るなと思へば、此方へ来る様に見える。先方《むかう》へ行くなと思へば、先方へ行く様に見える。何処の港を何日《いつ》立つて、何処の港へ何日着くのか。立ツて来る時には、必ず、アノ広い胸の底の、大きい重い悲痛《かなしみ》を、滞りなく出す様な汽笛を、誰|憚《はばか》らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸《うめ》きの声が、真上の空を劈《つん》ざいて、落ちて四周《あたり》の山を動し、反ツて数知れぬ人の頭《こうべ》を低《た》れさせて、響の濤《なみ》の澎湃《はうはい》と、東に溢れ西に漲り、甍《いらか》を圧し、樹々を震はせ………………………弱り弱ツた名残の音《ね》が、見えざる光となツて、今猶、或は、世界の奈辺《どこ》かにさまよふて居るかも知れぬ。と考へて来た時、ポツチリとした沖の汽船《ふね》が、怎《どう》やら少し動いた様に思はれた。右へ動いたか左へ寄ツたか、勿論そ
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