向いて居て、暫し黙して居たが、
『ストライキか。アハハヽヽヽ。』と突然大きな声を出して笑ツた。大きな声ではあツたが、然し何処か淋しい声であツた。
『昨夜《ゆうべ》君が帰ツてから、僕は怎《どう》しても眠れなかツた。』と楠野君の声は沈む。『一体村民の中に、一人でも君の心を解してる奴があツたのかい。』
『不思議にも唯一人、君に話した役場の老助役よ。』
『血あり涙あるを口癖にいふ老壮士か。』
『然《さう》だ。僕が四月の初めに辞表を出した時、村教育の前途を奈何《いかん》と謂ツて、涙を揮ツて留めたのも彼、それならばといツて僕の提出した条件に、先づ第一に賛成したのも彼。其条件が遂に行はれずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休学せしめた時から、予定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、実に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』
『怎《どう》して二人と無いもんだらう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。……。』
『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫《ああ》。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、
『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と声を落す。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。』
『夜の九時に青森に着いて、直ぐ船に乗ツたが、翌朝《よくあさ》でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寝て、厭な一夜《ひとよ》を明かしたよ。』
『……………………。』
『感慨無量だツたね。……真黒な雲の間から時々|片破月《かたわれづき》の顔を出すのが、恰度やつれた母の顔の様ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終《しまひ》にや山も川も人間の顔もゴチヤ交ぜになつて、胸の中が宛然《まるで》、火事と洪水と一緒になツた様だ。……僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『海の水は黒かツた。』
『黒かツたか。噫。黒かツたか。』と謂つて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可《いかん》。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事《こつ》た。……死ぬまで行《や》れ。否
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