館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と仰向の男が答へる。
『名前がさ』
『知らん。』
『知らん?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『自分の乘つた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顏を上げて、たしなめる樣に仰向の男を見る。
『だからさ。』
『君は何時でも其調子だ。』と苦い顏をしたが、『あれア陸奧丸です。膸分汚い船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。
『あ、陸奧ですか、あれには僕も一度乘つた事がある。餘程以前の事だが………………………』
『船員は、君、皆男許りな樣だが、あら怎《どう》したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。
胡坐の男は沖の汽船から眼を離して、躯を少し捻つた。『……………さうさね。海上の生活には女なんか要《い》らんぢやないか。海といふ大きい戀人の胞《はら》の上を、縱横自在に駛《か》け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るんだからね。』
『海といふ大きい戀人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顏を壓して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後かそれさへも知る由のない大氣の重々しさ。
胡坐の男は、
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