音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた樣に、一寸時計を出して見たが。
『あ、もう十二時が遂《とう》に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を捻《ひね》ツて居たが、『怎《どう》だ君、今夜少し飮まうぢやないか。』
『酒をか?』
『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』
『それぢや今は教會にも行かんだらう。』
『無論、……解放したんだ。』
『教會から信仰を。』
『一切の虚僞の中から自己をだ。』
『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出來んだらうか。』
『世の中から?』
『然《さう》だ、世の中から辭職するんだ。』
『フム、君は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎も角今夜は飮まうや。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。飮まう。』
『幾杯《いくら》飮める?』
『幾杯でも飮めるが、三杯《みツつ》やれば眞赤になる。』
『弱いんだね。』
『オイ君、凾館にも藝妓が居るか。』
『居るとも。』
『矢張黒文字ツて云ふだらうか。』
『黒文字とは何だい。』
『ハハア、君は黒文字の趣味
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