が然《さう》言つてましたから、先刻話した校長の所へ、これから※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて見ようかと思ふんです。尤も恁《かう》いふ都會では、女なら隨分資格の無い者も用《つか》ツてる樣だけれど、男の代用教員なんか可成《なるべく》採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可《いゝ》か怎《どう》か、そら解りませんがね。然し大抵なら那《あ》の校長は此方《こツち》のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや變だけれど、僕の親父《おやぢ》とは金錢上の關係もあるもんですからね。』
『あゝ然ですか。何れ宜敷《よろしく》御盡力下さい。後藤君が此函館に來たについちや、何しろ僕等先住者が充分盡すべき義務があるんですからね。』
『…………まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも晝飯までには歸つて來て呉れ給へ。ぢや失敬。』
 忠志君は急歩《いそぎあし》に砂を踏んで、磯傳ひに右へ辿つて行く。殘つた二人は默つて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなつて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被つて立ツて居る樣に見える。
『あれが僕の從兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。
『頭が貧しいんだね。』
 忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城郭の樣に、函館山がガッシリした諸肩《もろかた》に灰色の天を支へて、いと嚴そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一|刷毛《はけ》あざやかに、仄紅色《ほのくれなゐ》の霞の帶、梅に櫻をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、處々に現れた洋風の建築物《たてもの》は、何樣異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外國の港を偲ばしめる。
 不圖、忠志君の姿が見えなくなつた。と見ると、今まで忠志君の歩いて居た邊を、三臺の荷馬車が此方へ向いて進んで來る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀《あツ》と思ツて肇さんは目を見張ツた。碎けた浪の白※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しらあわ》は、銀の齒車を卷いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで沒した。小さいノアの方舟《はこぶね》が三つ出來る。浪が退《ひ》いた。馬は平氣で濡れた砂の上を進んで來る。復浪が來て、今度は馬の腹まで噛まうとする。馬はそれでも平氣である。相不變《あひかはらず》ズン/\進んで來る。肇さんは驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて、珍らし氣に此状《このさま》を眺めて居た。
『怎《どう》だへ、君、函館は可《いゝ》かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。
『さうさね。昨日來たばかしで、晝寢が一度、夜寢が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君|那《あれ》を見給へ。そら、復浪が來た。馬が輾《ころ》ぶぞ。そうら、……處が輾ばないんだ。矢張平氣で以て進んで來る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃《なあ》、君、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》豪《えら》い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』
『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する樣な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活氣のある氣風の多少殘つてる處もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然《まるで》駄目だね。内地に一番近い丈それ丈|不可《いかん》。内地の俗惡な都會に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』
『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』
『然《さう》いはれると立瀬《たつせ》が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意氣地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の學校だツて、其内情を暴露して見ると、實際情け無いもんだ。僕が這入つてから既に足掛三年にもなるがね。女學校と謂へや君、若い女に教へる處だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる、所謂家庭の女王になるんだらう。其處だ、君。僕は初めに其處を考へたんだ。現時の社會は到底破壞しなけやならん。破壞しなけやならんが、僕等一人や二人が、如何に聲を大きくして叫んだとて、矢張駄目なんだね。それよりは、年の若い女といふものは比較的感化し易い、年若い女に教へる女學校が、乃ち僕等の先づ第一に占領すべき城だと考へたね。若い女を改造するのだ。改造された女が妻となり、母となる。家庭の女王となる。……なるだらう、必ず。詰り唯一人の女を救ふのが、其家庭を改造し、其家庭の屬する社會を幾分なりとも改造することが出來る譯なんだ。僕は然思つたから、勇んで三十五圓の月給を頂戴する女學校の教師になツたんだ。』
『なツて見たら、燐寸箱《マツチばこ》の樣だらう。學校といふものは。』
『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全《まつ》たく。狹くて
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