館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と仰向の男が答へる。
『名前がさ』
『知らん。』
『知らん?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『自分の乘つた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顏を上げて、たしなめる樣に仰向の男を見る。
『だからさ。』
『君は何時でも其調子だ。』と苦い顏をしたが、『あれア陸奧丸です。膸分汚い船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。
『あ、陸奧ですか、あれには僕も一度乘つた事がある。餘程以前の事だが………………………』
『船員は、君、皆男許りな樣だが、あら怎《どう》したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。
胡坐の男は沖の汽船から眼を離して、躯を少し捻つた。『……………さうさね。海上の生活には女なんか要《い》らんぢやないか。海といふ大きい戀人の胞《はら》の上を、縱横自在に駛《か》け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るんだからね。』
『海といふ大きい戀人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顏を壓して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後かそれさへも知る由のない大氣の重々しさ。
胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨を一本とつて、チョと燐寸《マツチ》を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅《き》えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく發した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散つて見えなくなる。
默つて此樣を見て居た忠志君の顏には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて來るのか、何樣澁い翳《かげ》が漲つて、眉間の肉が時々ピリ/\と動いた。何か言はうとする樣に、二三度口を蠢《うごめ》かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ樣だが、實際|怎《どう》も、肇《はじめ》さんの爲方《やりかた》にや困つて了ふね。無頓着といへば可のか、向不見《むかうみず》といへば可《いゝ》のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど露骨に云へや後前《あとさき》見ずの亂暴だあね。それで通せる世の中なら、何處までも我儘通して行くも可さ。それも君一人ならだね。彼※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》に年老つた伯母さんを、…
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