歌集
悲しき玩具
―一握の砂以後―
石川啄木
−−
呼吸《いき》すれば、
胸の中《うち》にて鳴る音あり。
凩《こがらし》よりもさびしきその音!
眼《め》閉《と》づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
途中にてふと気が変り、
つとめ先を休みて、今日も、
河岸《かし》をさまよへり。
咽喉《のど》がかわき、
まだ起きてゐる果物屋《くだものや》を探しに行きぬ。
秋の夜ふけに。
遊びに出《で》て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具《おもちや》の機関車。
本を買ひたし、本を買ひたしと、
あてつけのつもりではなけれど
妻に言ひてみる。
旅を思ふ夫《をつと》の心!
叱《しか》り、泣く、妻子《つまこ》の心!
朝の食卓!
家《いへ》を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
痛む歯をおさへつつ、
日が赤赤《あかあか》と、
冬の靄《もや》の中にのぼるを見たり。
いつまでも歩いてゐねばならぬごとき
思ひ湧《わ》き来《き》ぬ、
深夜の町町《まちまち》。
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気《ゆげ》がやはらかに、顔にかかれり。
何《なん》となく、
今朝は少しく、わが心明るきごとし。
手の爪《つめ》を切る。
うっとりと
本の挿絵《さしゑ》に眺め入り、
煙草《たばこ》の煙吹きかけてみる。
途中にて乗換《のりかへ》の電車なくなりしに、
泣かうかと思ひき。
雨も降りてゐき。
二晩《ふたばん》おきに、
夜《よ》の一時頃に切通《きりどほし》の坂を上《のぼ》りしも――
勤《つと》めなればかな。
しっとりと
酒のかををりにひたりたる
脳の重みを感じて帰る。
今日《けふ》もまた酒のめるかな!
酒のめば
胸のむかつく癖《くせ》を知りつつ。
何事か今我つぶやけり。
かく思ひ、
目をうちつぶり、酔《ゑ》ひを味《あじは》ふ。
すっきりと酔ひのさめたる心地《ここち》よさよ!
夜中に起きて、
墨《すみ》を磨《す》るかな。
真夜の中の出窓《でまど》に出《い》でて、
欄干《らんかん》の霜に
手先を冷《ひ》やしけるかな。
どうなりと勝手になれといふごとき
わがこのごろを
ひとり恐《おそ》るる。
手も足もはなればなれにあるごとき
ものうき寝覚《ねざめ》!
かなしき寝覚!
朝な朝な
撫《な》でてかなしむ、
下にして寝た方《ほう》の腿《もも》のかろきしびれを。
曠野《あらの》ゆく汽車のごとくに、
このなやみ、
ときどき我の心を通る。
みすぼらしき郷里《くに》の新聞ひろげつつ、
誤植《ごしよく》ひろへり。
今朝のかなしみ。
誰《たれ》か我を
思ふ存分《ぞんぶん》叱《しか》りつくる人あれと思ふ。
何《なん》の心ぞ。
何がなく
初恋人《はつこひびと》のおくつきに詣《まう》づるごとし。
郊外に来ぬ。
なつかしき
故郷にかへる思ひあり、
久し振《ぶ》りにて汽車に乗りしに。
新しき明日《あす》の来《きた》るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘《うそ》はなけれど――
考へれば、
ほんとに欲《ほ》しと思ふこと有るやうで無し。
煙管《きせる》をみがく。
今日ひょいと山が恋しくて
山に来《き》ぬ。
去年腰掛《こしか》けし石をさがすかな。
朝寝して新聞読む間《ま》なかりしを
負債《ふさい》のごとく
今日も感ずる。
よごれたる手をみる――
ちゃうど
この頃の自分の心に対《むか》ふがごとし。
よごれたる手を洗ひし時の
かすかなる満足が
今日の満足なりき。
年明けてゆるめる心!
うっとりと
来《こ》し方《かた》をすべて忘れしごとし。
昨日まで朝から晩《ばん》まで張りつめし
あのこころもち
忘れじと思へど。
戸の面《も》には羽子《はね》突《つ》く音す。
笑う声す。
去年の正月にかへれるごとし。
何となく、
今年はよい事あるごとし。
元日の朝、晴れて風無し。
腹の底より欠伸《あくび》もよほし
ながながと欠伸してみぬ、
今年の元日。
いつの年も、
似たよな歌を二つ三つ
年賀の文《ふみ》に書いてよこす友。
正月の四日《よつか》になりて
あの人の
年《ねん》に一度の葉書《はがき》も来にけり。
世におこなひがたき事のみ考へる
われの頭よ!
今年もしかるか。
人がみな
同じ方角《ほうがく》に向いて行《ゆ》く。
それを横より見てゐる心。
いつまでか、
この見飽《みあ》きたる懸額《かけがく》を
このまま懸けてておくことやらむ。
ぢりぢりと、
蝋[#「鑞」の「金へん」を代えて「虫」]燭の燃えつくるごとく、
夜となりたる大晦日《おほみそか》かな。
青塗《あをぬり》の瀬戸の火鉢によりかかり、
眼閉《と》ぢ、眼を開《あ》け、
時を惜《をし》めり。
何《なん》となく明日はよき事あるごとく
思ふ心を
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