《あじは》ふ。

夜おそく何処《どこ》やらの室《へや》の騒がしきは
人や死にたらむと、
息をひそむる。

脉《みやく》をとる看護婦の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅《かた》き日もあり。

病院に入《い》りて初めての夜《よ》といふに、
すぐ寝入りしが、
物足らぬかな。

何《なに》となく自分をえらい人のやうに
思ひてゐたりき。
子供なりしかな。

ふくれたる腹を撫《な》でつつ、
病院の寝台《ねだい》に、ひとり、
かなしみてあり。

目さませば、からだ痛くて
動かれず。
泣きたくなりて、夜明くるを待つ。

びっしょりと寝汗《ねあせ》出《で》てゐる
あけがたの
まだ覚《さ》めやらぬ重きかなしみ。

ぼんやりとした悲しみが、
夜《よ》となれば、
寝台《ねだい》の上にそっと来て乗る。

病院の窓によりつつ、
いろいろの人の
元気に歩くを眺《なが》む。

もうお前《まへ》の心底《しんてい》をよく見届《みとど》けたと、
夢に母来て
泣いてゆきしかな。

思ふこと盗みきかるる如《ごと》くにて、
つと胸を引きぬ――
聴診器《ちやうしんき》より。


看護婦の徹夜するまで、
わが病《やま》ひ、
わるくなれとも、ひそかに願へる。

病院に来て、
妻や子をいつくしむ
まことの我にかへりけるかな。

もう嘘《うそ》をいはじと思ひき――
それは今朝《けさ》――
今また一つ嘘をいへるかな。

何となく、
自分を嘘のかたまりの如《ごと》く思ひて、
目をばつぶれる。

今までのことを
みな嘘にしてみれど、
心すこしも慰《なぐさ》まざりき。

軍人になると言ひ出して、
父母《ちちはは》に
苦労させたる昔の我かな。

うっとりとなりて、
剣をさげ、馬にのれる己《おの》が姿を
胸に描ける。

藤沢といふ代議士を
弟のごとく思ひて、
泣いてやりしかな。

何か一つ
大いなる悪事しておいて、
知らぬ顔してゐたき気持かな。

ぢっとして寝ていらっしゃいと
 子供にでもいふがごとくに
 医者のいふ日かな。

氷嚢の下より
まなこ光らせて、
 寝られぬ夜《よる》は人をにくめる。

春の雪みだれて降るを
 熱のある目に
 かなしくも眺め入《い》りたる。

人間のその最大のかなしみが
 これかと
ふっと目をばつぶれる。

廻診《くわいしん》の医者の遅《おそ》さよ!
痛みある胸に手をおきて
 かたく眼をとづ。

医者の顔色をぢっと見し外《ほか》に
何も見ざりき――
 胸の痛み募《つの》る日。

 病《や》みてあれば心も弱るらむ!
さまざまの
泣きたきことが胸にあつまる。

寝つつ読む本の重さに
 つかれたる
手を休めては、物を思へり。

今日はなぜが、
 二度も、三度も、
 金側《きんかわ》の時計を一つ欲しと思へり。

いつか是非《ぜひ》、出《だ》さんと思ふ本のこと、
表紙のことなど、
 妻に語れる。

胸いたみ、
春の霙《みぞれ》の降る日なり。
 薬に噎《む》せて、伏《ふ》して眼をとづ。

あたらしきサラドの色の
 うれしさに、
箸《はし》をとりあげて見は見つれども――

子を叱《しか》る、あはれ、この心よ。
 熱高き日の癖《くせ》とのみ
 妻よ、思ふな。

運命の来て乗れるかと
 うたがひぬ――
蒲団《ふとん》の重き夜半《よは》の寝覚《ねざ》めに。

たへがたき渇《かわ》き覚《おぼ》ゆれど、
 手をのべて
 林檎《りんご》とるだにものうき日かな。

氷嚢のとけて温《ぬく》めば、
おのづから目がさめ来《きた》り、
 からだ痛める

いま、夢に閑古鳥《かんこどり》を聞けり。
 閑古鳥を忘れざりしが
 かなしくあるがな。

ふるさとを出《い》でて五年《いつとせ》、
 病《やまひ》をえて、
かの閑古鳥を夢にきけるかな。

閑古鳥――
 渋民村《しぶたみむら》の山荘《さんさう》をめぐる林の
 あかつきなつかし。

ふるさとの寺の畔《ほとり》の
 ひばの木の
いただきに来て啼《な》きし閑古鳥!

脈をとる手のふるひこそ
かなしけれ――
 医者に叱られし若き看護婦!

いつとなく記憶《きおく》に残りぬ――
Fといふ看護婦の手の
 つめたさなども。

はづれまで一度ゆきたしと
 思ひゐし
かの病院の長廊下かな。

起きてみて、
また直《す》ぐ寝たくなる時の
 力なき眼に愛《め》でしチュリップ!

堅《かた》く握《にぎ》るだけの力も無くなりし
やせし我が手の
 いとほしさかな。

わが病《やまひ》の
 その因《よ》るところ深く且《か》つ遠きを思ふ。
 目をとぢて思ふ。

かなしくも、
 病《やまひ》いゆるを願はざる心我に在《あ》り。
何《なん》の心ぞ。

新しきからだを欲しと思ひけり、
 手術の傷《きず》の
 痕《あと》を撫《な》でつつ。

薬のむことを忘るるを、
 それとなく、
たのしみ
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