田園の思慕
石川啄木
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嗤《わら》ふ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
−−
獨逸の或小説家がその小説の中に、田園を棄てて相率ゐて煤煙と塵埃とに濁つた都會の空氣の中に紛れ込んで行く人達の運命を批評してゐるさうである。さうした悲しい移住者は、思ひきりよく故郷と縁を絶つては來たものの、一足都會の土を踏むともう直ぐその古びた、然しながら安らかであつた親讓りの家を思ひ出さずにはゐられない。どんな神經の鈍い田舍者にでも、多量の含有物を有つてゐる都會の空氣を呼吸するには自分の肺の組織の餘りに單純に出來てゐるといふ事だけは感じられるのである。かくて彼等の田園思慕の情は、その新しい生活の第一日に始まつて、生涯の長い劇しい勞苦と共にだん/\深くなつてゆく。彼等は都會の何處の隅にもその意に適つた場所を見出すことはない。然し一度足を踏み入れたら、もう二度とそれを拔かしめないのが、都會と呼ばるる文明の泥澤の有つてゐる不可思議の一つである。彼等は皆一樣に、温かい田園思慕の情を抱いて冷たい都會の人情の中に死ぬ。さてその子になると、身みづからは見たことがないにしても、寢物語に聞かされた故郷の俤――山、河、高い空、廣々とした野、澄んだ空氣、新鮮な野菜、穀物の花及び其處に住まつてゐる素朴な人達の交はり――すべてそれらのうららかなイメエジは、恰度お伽噺の「幸の島」のやうに、過激なる生活に困憊した彼等の心を牽くに充分である。彼等も亦その父の死んだ如くに死ぬ。かくて更にその子、即ち悲しき移住者の第三代目になると、状態は餘程違つて來る。彼等と彼等の父祖の故郷との距離は、啻に空間に於てばかりでなく、また時間に於ても既に遙かに遠ざかつてゐる。のみならず、前二代に作用した進化の法則と、彼等が呱々の聲を擧げて以來絶間なく享けた教育とは、漸く彼等の肺の組織を複雜にし、彼等の官能を鋭敏ならしめてゐる。官能の鋭敏と徳性の痲痺とは都會生活の二大要素である。實に彼等は、思慕すべき田園を喪ふと同時にその美しき良心をも失つてゐるのである。思慕すべき田園ばかりでなく、思慕すべき一切を失つてゐるのである。かくてかくの如き彼等の生活の悲慘
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング