が、その父の悲慘よりも、その祖父の悲慘よりも更に一更悲慘なるものであることは、言ふまでもない。――
この話を私は何時何處で誰から聞いたのか、すつかり忘れてしまつた。或は人から聞いたのではなくて、何かで讀んだのかも知れない。作者の名も小説の名も知らない、知つてるのはただ右の話だけである。或時獨逸の新しい小説に通じてゐる友人に訊ねてみたが、矢張解らなかつた。誠に取止めのないことであるが、それでゐて私は不思議にも此の話を長く忘れずにゐる。さうして時々思ひ出しては、言ひ難い悲しみを以て自分の現在と過去との間に心を迷ひ入らしめる。――私も亦「悲しき移住者」の一人である。
地方に行くと、何處の町にも、何處の村にも、都會の生活に憧がれて仕事に身の入らぬ若い人達がゐる。私はよくそれらの人達の心を知つてゐる。さうして悲しいと思ふ。それらの人達も、恰度都會に於ける田園思慕者と同じに、十人の九人までは生涯その思慕の情を滿たすことなくして死ぬ。然し其處には、兩者の間に區別をつけてつけられぬこともない。田園にゐて都會を思慕する人の思慕は、より良き生活の存在を信じて、それに達せむとする思慕である。樂天的であり、積極的である。都會に於ける田園思慕者に至つてはさうではない。彼等も嘗て一度は都會の思慕者であつたのである。さうして現在に於ては、彼等の思慕は、より惡き生活に墮ちた者が以前の状態に立歸らむとする思慕である。たとひその思慕が達せられたにしても、それが必ずしも眞の幸福ではないことを知つての上の思慕である。それだけたよりない思慕である。絶望的であり、消極的である。またそれだけ悲しみが深いのである。
産業時代といはるる近代の文明は、日一日と都會と田園との間の溝渠を深くして來た。今も深くしてゐる。これからも益々深くするに違ひない。さうして田園にゐる人の都會思慕の情が日一日深くなり、都會に住む者の田園思慕の情も日一日深くなる。かかる矛盾はそも/\何處に根ざしてゐるか。かかる矛盾は遂には一切の人間をして思慕すべき何物をも有たぬ状態に歩み入らしめるやうなことはないだらうか。
肺の組織の複雜になつた人達、官能のみひとり鋭敏になつた人達は、私が少年の如き心を以て田園を思慕するのを見て、「見よ、彼處にはあんな憐れな理想家がゐる。」と嗤《わら》ふかも知れない。嗤はれてもかまはない、私は私の思慕を棄てたくは
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