、お定は凝《じつ》と涙の目を押瞑《おしつぶ》つた儘、『阿母《あツばあ》、許してけろ。』と胸の中で繰返した。
 左《さ》う右《か》うしてるうちにも、神経が鋭くなつてゐて、壁の彼方から聞える主人夫婦の声に、若しや自分の事を言やせぬかと気をつけてゐたが、時計が十時を打つと、皆寝て了つた様だ。お定は、若しも明朝寝坊をしてはと、漸々《やうやう》涙を拭つて蒲団を取出した。
 三分心の置洋燈を細めて、枕に就くと、気が少し暢然《ゆつたり》した。お八重さんももう寝たらうかと、又しても友の上を思出して、手を伸べて掛蒲団を引張ると、何となくフワリとして綿が柔かい。郷里で着て寝たのは、板の様に薄く堅い、荒い木綿の飛白《かすり》の皮をかけたのであつたが、これは又源助の家で着たのよりも柔かい。そして、前にゐた幾人の女中の汗やら髪の膩《あぶら》やらが浸みてるけれども、お定には初めての、黒い天鵞絨《ビロウド》の襟がかけてあつた。お定は不図《ふと》、丑之助がよく自分の頬片《ほつぺた》を天鵞絨の様だと言つた事を思出した。
 また降り出したと見えて、蕭《しめや》かな雨の音が枕に伝はつて来た。お定は暫時《しばし》恍乎《うつと
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