ええ、先刻《せんこく》菊坂の理髪店《とこや》だつてのが伴れて来ましたの。(お定を向いて)此《この》方《かた》が旦那様だから御挨拶しな。』
『ハ。』と口の中で答へたお定は、先刻《さつき》からもう其挨拶に困つて了つて、肩をすぼめて切ない思ひをしてゐたので、恁ういはれると忽ち火の様に赤くなつた。
『何卒《どうか》ハ、お頼申《たのまを》します。』と、聞えぬ程に言つて、両手を突く。旦那様は、三十の上を二つ三つ越した、髯の厳しい立派な人であつた。
『名前は?』
といふを冒頭《はじめ》に、年齢《とし》も訊かれた、郷里《くに》も訊かれた、両親のあるか無いかも訊かれた。学校へ上つたか怎かも訊かれた。お定は言葉に窮《こま》つて了つて、一言《ひとこと》言はれる毎に穴あらば入りたくなる。足が耐へられぬ程|麻痺《しび》れて来た。
稍あつてから、『今夜は何もしなくても可いから、先刻教へたアノ洋燈《ランプ》をつけて、四畳に行つてお寝《やす》み、蒲団は其処の押入に入つてある筈だし、それから、まだ慣れぬうちは夜中に目をさまして便所《はばかり》にでもゆく時、戸惑ひしては不可《いけぬ》から、洋燈は細めて危なくない所に置い
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