だ轟々たる都の轟きが鳴つてゐる。
 幸ひ好い奉公の口があつたが、先づ四五日は緩《ゆつく》り遊んだが可からうといふ源助の話を聞いて、二人は夕餐《ゆふめし》が済むと間もなく二階に上つた。二人共「疲れた。」と許り、べたりと横に坐つて、話もない。何処かしら非常に遠い所へ行つて来た様な心地である。浅草とか日比谷とかいふ語《ことば》だけは、すぐ近間にある様だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて来なけやならぬ様に思へる。一時間前まで見て来た色々の場所、あれも/\と心では数へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乗や、勧工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠める。足下から鳩が飛んだりする。
 お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見廻して、一町も向うから電車が来ようものなら、もう足が動かぬ。漸《やうや》つとそれを遣り過して、十間も行つてから思切つて向側に駆ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況《ま》して乗つた時の窮屈さ。洋服着た男とでも肩が擦れ/\になる
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