と、訳もなく身体が縮んで了つて、些《ちよい》と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乗降、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乗るよりは、山路を三里素足で歩いた方が杳《はる》か優《ま》しだ。
 大都は其凄まじい轟々たる響きを以て、お定の心を圧した。然しお定は別に郷里に帰りたいとも思はなかつた。それかと言つて、東京が好なのでもない。此処に居ようとも思はねば、居まいとも思はぬ。一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、穏《おと》なしいお定は疲れてゐるのだ。たゞ疲れてゐるのだ。
 煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて来たお吉は、明日お湯屋に伴れて行くと言つて、下りて行つた。
 九時前に二人は蒲団を延べた。

 三日目は雨。

 四日目は降りみ降らずみ。九月ももう二十日を過ぎたので、残暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々《しとしと》と廂《ひさし》を濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰気な心を起させる。二人は徒然《つくねん》として相対した儘、言葉少なに郷里の事を思出してゐた。
 午餐《ひるめ
前へ 次へ
全82ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング