の御餞別を合せると、五十円位集つたらうと、羨ましさうに計算する者もあつた。それ許りぢやない、源助さんは此五六年に、百八十両もおツ貯めたげなと、知つたか振をする爺もあつた。が、此源助が、白井様の分家の、四六時中《しよつちゆう》リユウマチで臥《ね》てゐる奥様に、或る特別の慇懃《いんぎん》を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。
 二十日許りも過ぎてからだつたらうか、源助の礼状の葉書が、三十枚も一度に此村に舞込んだ。それが又、それ相応に一々文句が違つてると云ふので、人々は今更の様に事々しく、渠の万事《よろづ》に才が廻つて、器用であつた事を語り合つた。其後も、月に一度、三月に二度と、一年半程の間は、誰へとも限らず、源助の音信があつたものだ。
 理髪店《とこや》の店は、其頃兎や角一人前になつたノロ勘が譲られたので、唯《たつた》一軒しか無い僥倖《しあはせ》には、其|間《ま》が抜けた無駄口に華客《おきやく》を減らす事もなく、かの凸凹の大きな姿見が、今猶人の顔を長く見せたり、扁《ひらた》く見せたりしてゐる。
 其源助さんが四年振で、突然遣つて来たといふのだから、もう殆ど忘れて了つてゐた村の人達が、男
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