ハイ/\』と言ひながら、自分も馬車に飛乗つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。
 二人は、まだ頭脳《あたま》の中が全然《すつかり》覚めきらぬ様で、呆然《ぼんやり》として、段々後方に遠ざかる村の方を見てゐたが、道路の両側はまだ左程古くない松並木、暁の冷さが爽かな松風に流れて、叢の虫の音は細い。一町許り来た時、村端れの水汲場の前に、白手拭を下げた男の姿が見えた。それは、毎朝其処に顔洗ひに来る藤田であつた。お定は膝の上に握つてゐた新しい※[#「巾+扮のつくり」、146−下−7]※[#「巾+兌」、146−下−7]《ハンケチ》を取るより早く、少し伸び上つてそれを振つた。藤田は立止つて凝然《じつ》と此方《こつち》を見てゐる様だつたが、下げてゐた手拭を上げたと思ふ間に、道路《みち》は少し曲つて、並木の松に隠れた。と、お定は今の素振を、お八重が何と見たかと気がついて、心羞《うらはづ》かしさと落胆《がつかり》した心地でお八重の顔を見ると、其美しい眼には涙が浮かんでゐた。それを見ると、お定の眼にも遽《には》かに涙が湧いて来た。
 盛岡へ五里を古い新しい松並木、何本あるか数へた人はない。二人が
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