』と女は稍声高く言つたが、別に怒つたでもない。
『明日《あした》汽車で行くだか?』
『権作|老爺《おやぢ》の荷馬車|行《い》くで。』
『だら、朝早かべせえ。』と言つたが、『小遣銭|呉《け》えべかな? ドラ、手ランプ点《つ》けろでヤ。』
お定が黙つてゐたので、丑之助は自分で手探りに燐寸《マツチ》を擦つて手ランプに移すと、其処に脱捨てゝある襯衣《シヤツ》の衣嚢《かくし》から財布を出して、一円紙幣を一枚女の枕の下に入れた。女は手ランプを消して、
『余計だす。』
『余計な事ア無《ね》えせア。もつと有るものせえ。』
お定は、平常《ひごろ》ならば恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を余り快く思はぬのだが、常々添寝した男から東京行の餞別を貰つたと思ふと、何となく嬉しい。お八重には恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事が無からうなどゝ考へた。
先刻《さつき》の蟋蟀《こほろぎ》が、まだ何処か室の隅ツこに居て、時々思出した様に、哀れな音を立てゝゐた。此夜お定は、怎しても男を抱擁《だきし》めた手を弛《ゆ
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