了つた。
 手ランプを消した。
 一時間許り経つと、丑之助がもう帰準備《かへりじたく》をするので、これも今夜|限《きり》だと思ふと、お定は急に愛惜の情が喉に塞つて来て、熱い涙が滝の如く溢れた。別に丑之助に未練を残すでも何でもないが、唯もう悲しさが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に両手で力の限り男を抱擁《だきし》めた。男は暗《やみ》の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚《びつくり》して、目を円《まろ》くしてゐたが、やがてお定は忍音《しのびね》に歔欷《すすりなき》し始めた。
 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何しろ余り突然なので、唯目を円くするのみだ。
『怎したけな?』と囁いてみたが返事がなくて一層|歔欷《すすりな》く。と、平常《ひごろ》から此女の穏《おとな》しく優しかつたのが、俄かに可憐《いぢらし》くなつて来て、丑之助は再《また》、
『怎したけな、真《ほんと》に?』と繰返した。『俺ア何か悪い事でもしたげえ?』
 お定は男の胸に密接《ぴたり》と顔を推着《おつつ》けた儘で、強く頭を振つた。男はもう無性にお定が可憐《いぢらし》くなつて、
『だら怎し
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