間も歩いてるうちには、気の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタ/\と家路に帰るお定の眼には、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人を彼是と数へてゐた。此村《ここ》から東京へ百四十五里、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は知らぬ。東京は仙台といふ所より遠いか近いか、それも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。
枕に就くと、今日位身体も心も急がしかつた事がない様な気がして、それでも、何となく物足らぬ様な、心悲《うらがな》しい様な、恍乎《うつとり》とした疲心地で、すぐうと/\と眠つて了つた。
ふと目が覚めると、消すのを忘れて眠つた枕辺《まくらもと》の手ランプの影に、何処から入つて来たか、蟋蟀《こほろぎ》が二|疋《ひき》、可憐な羽を顫はして啼いてゐる。遠くで若者《わかいもの》が吹く笛の音のする所から見れば、まだ左程夜が更けてもゐぬらしい。
と櫺子の外にコツコツと格子を叩く音がする。あ之で目が覚めたのだなと思つて、お定は直ぐ起き上つて、密《こつそ》りと格子を脱《はづ》した。丑之助が身軽に入つて
前へ
次へ
全82ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング