許りなき心悲《うらがな》しい感情を起させた。所々降つて来さうな秋の星、八日許りの片割月《かたわれづき》が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程《なかほど》の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう湿声《うるみごゑ》になつて、断々《きれぎれ》に語りながら、他所《よそ》ながら家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行《さまよ》うた。路で逢ふ人には、何日《いつ》になく忸々《なれなれ》しく此方から優しい声を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※[#「巾+扮のつくり」、143−下−3]※[#「巾+兌」、143−下−3]《ハンケチ》を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何処ともない笑声、子供の泣く声もする。とある居酒屋の入口からは、火光《あかり》が眩《まばゆ》く洩れて、街路《みち》を横さまに白い線を引いてゐたが、虫の音も憚からぬ酔うた濁声《だみごゑ》が、時々けたゝましい其店の嬶の笑声を伴つて、喧嘩でもあるかの様に一町先までも聞える。二人は其騒々しい声すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。
 それでも、二時
前へ 次へ
全82ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング