た》や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう気がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。
 大工の家へ裏伝ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出来上つて、押入れの隅に隠してあつた。其処へ源助が来て、明後日の夕方までに盛岡の停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其処へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。
 それからお八重と二人家へ帰ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い炉端に一人|踏込《ふんご》んで、莨を吹かしてゐる。
『父爺《おやぢ》や。』とお定は呼んだ。
『何しや?』
『明日盛岡さ行つても可えが?』
『お八重ツ子どがえ?』
『然《さ》うしや。』
『八幡様のお祭礼《まつり》にや、まだ十日もあるべえどら。』
『八幡様までにや、稲刈が始るべえな。』
『何しに行ぐだあ?』
『お八重さんが千太郎さま宅《とこ》さ用あつて行くで、俺も伴《つ》れてぐ言ふでせア。』
『可《え》がべす、老爺《おやぢ》な。』とお八重も喙《くち》を容れた。
『小遣銭があるがえ?』

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