御座え。』

 此日は、二人にとつて此上もない急がしい日であつた。お定は、水汲から帰ると直ぐ朝草刈に平田野《へいだの》へ行つたが、莫迦《ばか》に気がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無数の露の美しさ。秋草の香が初蕈《はつだけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌《とがま》の動く毎に、サツサツと音して臥《ね》る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往来《ゆきき》する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より余程長くかゝつた。
 朝草を刈つて来てから、馬の手入を済ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り残してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前《ひるまへ》には刈り了へて、弟と共に黒馬《あを》と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。
 母は裏の物置の側《わき》に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打残しの麻糸を砧《う》つてゐる。三時頃には父も田廻りから帰つて来て、厩の前の乾秣場《やたば》で、鼻唄ながらに鉈《な
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