める様で、裏路伝ひに家へ帰つた。明日返事するとは言つたものの、お定はもう心の底では確然《ちやん》と行く事に決つてゐたので。
 家に帰ると、母は勝手に手ランプを点《つ》けて、夕餉の準備に急《せ》はしく立働いてゐた。お定は馬に乾秣《やた》を刻《き》つて塩水に掻廻して与《や》つて、一担ぎ水を汲んで来てから夕餉の膳に坐つたが、無暗に気がそは/\してゐて、麦八分の飯を二膳とは喰べなかつた。
 お定の家は、村でも兎に角食ふに困らぬ程の農家で、借財と云つては一文もなく、多くはないが田も畑も自分の所有《もの》、馬も青と栗毛と二頭飼つてゐた。両親はまだ四十前の働者《はたらきもの》、母は真《ほん》の好人物《おひとよし》で、吾児にさへも強い語《ことば》一つ掛けぬといふ性《たち》、父は又父で、村には珍らしく酒も左程|嗜《たしな》まず、定次郎の実直といへば白井様でも大事の用には特に選《え》り上げて使ふ位で、力自慢に若者《わかいもの》を怒らせるだけが悪い癖だと、老人達《としよりだち》が言つてゐた。祖父《ぢい》も祖母《ばあ》も四五年前に死んで、お定を頭に男児二人、家族といつては其丈で、長男の定吉は、年こそまだ十七で
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