であつたが、然し一言もお定に対して小言がましい事は言はなかつた。何故なれば忠太は其実、矢張り源助の話を聞いて以来、死ぬまでには是非共一度は東京見物に行きたいものと、家には働手が多勢ゐて自分は閑人《ひまじん》なところから、毎日考へてゐた所へ、幸ひと二人の問題が起つたので、構はずにや置かれぬから何なら自分が行つて呉れても可《い》いと、不取敢《とりあへず》気の小さい兼大工を説き落し、兼と二人でお定の家へ行つて、同じ事を遠廻しに詳々《くどくど》と喋り立てたのであるが、母親は流石に涙顔をしてゐたけれども、定次郎は別に娘の行末を悲観してはゐなかつた。それを漸々《やうやう》納得させて、二人の帰りの汽車賃と、自分のは片道だけで可いといふので、兼から七円に定次郎から五円、先づ体の可い官費旅行の東京見物を企てたのであつた。
 軈てお八重も新太郎に伴れられて帰つて来たが、坐るや否や先づ険しい眼尻を一層険しくして、凝《じつ》と忠太の顔を睨むのであつた。忠太は、お定に言つたと同じ様な事を、繰返してお八重にも語つたが、お八重は返事も碌々せず、脹《ふく》れた顔をしてゐた。
 源助の忠太に対する驩待振《もてなしぶり》は、二人が驚く許り奢《おご》つたものであつた。無論これは、村の人達に伝へて貰ひたい許りに、少許《すこし》は無理な事までして外見《みえ》を飾つたのであるが。
 其夜は、裏二階の六畳に忠太とお八重お定の三人枕を並べて寝せられたが、三人限になると、お八重は直ぐ忠太の膝をつねりながら、
『何《なん》しや来たす此|人《しと》ア。』と言つて、執念《しふね》くも自分等の新運命を頓挫させた罪を詰るのであつたが、晩酌に陶然とした忠太は、間もなく高い鼾《いびき》をかいて、太平の眠に入つて了つた。するとお八重は、お定の穏《おとな》しくしてるのを捉まへて、自分の行つた横山様が、何とかいふ学校の先生をして、四十円も月給をとる学士様な事や、其奥様の着てゐた衣服《きもの》の事、自分を大層可愛がつてくれた事、それからそれと仰々しく述べ立てて、今度は仕方がないから帰るけれど、必ず再《また》自分だけは東京に来ると語つた。そしてお八重は、其奥様のお好みで結はせられたと言つて、生れて初めての廂髪に結つてゐて、奥様から拝領の、少し油染みた、焦橄欖《こげおりいぶ》のリボンを大事相に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]してゐた。
 お八重は又、自分を迎ひに来て呉れた時の新太郎の事を語つて『那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》親切な人ア家《え》の方にや無《ね》えす。』と讃めた。
 お定はお八重の言ふが儘に、唯穏しく返事してゐた。
 その後二三日は、新太郎の案内で、忠太の東京見物に費された。お八重お定の二人も、もう仲々来られぬだらうから、よく見て行けと言ふので、毎日其|随伴《おとも》をした。
 二人は又、お吉に伴れられて行つて、本郷館で些少《ささやか》な土産物をも買ひ整へた。

     十一

 お八重お定の二人が、郷里を出て十二日目の夕、忠太に伴れられて、上野のステイシヨンから帰郷の途に就いた。
 貫通車の三等室、東京以北の諸有《あらゆる》国々の訛を語る人々を、ぎつしりと詰めた中に、二人は相並んで、布袋の様な腹をした忠太と向合つてゐた。長い/\プラツトフオームに数限りなき掲燈《あかり》が昼の如く輝き初めた時、三人を乗せた列車が緩やかに動《ゆる》ぎ出して、秋の夜の暗《やみ》を北に一路、刻一刻東京を遠ざかつて行く。
 お八重はいはずもがな、お定さへも此時は妙に淋しく名残惜しくなつて、密々《こそこそ》と其事を語り合つてゐた。此日は二人共廂髪に結つてゐたが、お定の頭にはリボンが無かつた。忠太は、棚の上の荷物を気にして、時々其を見上げ/\しながら、物珍らし相に乗合の人々を、しげ/\見比べてゐたが、一時間許り経つと、少し身体を曲《かが》めて、
『尻《けつ》ア痛くなつて来た。』と呟いた。『汝《うな》ア痛くねえが?』
『痛くねえす。』とお定は囁いたが、それでも忠太がまだ何か話欲しさうに曲《かが》んでるので、
『家の方でヤ玉菜だの何ア大きくなつたべなす。』
『大きくなつたどもせえ。』と言つた忠太の声が大きかつたので、周囲《あたり》の人は皆此方を見る。
『汝《うな》ア共《ど》ア逃げでがら、まだ二十日にも成んめえな。』
 お定は顔を赤くしてチラと周囲を見たが、その儘返事もせず俯《うつむ》いて了つた。お八重は顔を蹙めて厭々《いまいま》し気に忠太を横目で見てゐた。

 十時頃になると、車中の人は大抵こくり/\と居睡を始めた。忠太は思ふ様腹を前に出して、グツと背後《うしろ》に凭れながら、口を開けて、時々鼾をかいてゐる。お八重は身体
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