を捻つて背中合せに腰掛けた商人体の若い男と、頭を押接《おつつ》けた儘、眠つたのか眠らぬのか、凝としてゐる。
 窓の外は、機関車に悪い石炭を焚くので、雨の様な火の子が横様に、暗を縫うて後方に飛ぶ。懐手をして、円い頤《おとがひ》を襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷里《くに》を逃げ出して以来の事をそれからそれと胸に数へてゐた。お定の胸に刻みつけられた東京は、源助の家と、本郷館の前の人波と、八百屋の店と、へ[#「へ」に傍点]の字口の鼻先が下向いた奥様とである。この四つが、目眩《めまぐ》ろしき火光《あかり》と轟々たる物音に、遠くから包まれて、ハツと明るい。お定が一生の間、東京といふ言葉を聞く毎に、一人胸の中に思出す景色は、恐らく此四つに過ぎぬであらう。
 軈《やが》てお定は、懐手した左の指を少し許り襟から現して、柔かい己が頬を密《そつ》と撫でて見た。小野の家で着て寝た蒲団の、天鵞絨の襟を思出したので。
 瞬く間、窓の外が明るくなつたと思ふと、汽車は、トある森の中の小さい駅を通過《パツス》した。お定は此時、丑之助の右の耳朶《みみたぼ》の、大きい黒子を思出したのである。

 新太郎と共に、三人を上野まで送つて呉れたお吉は、さぞ今頃、此間中は詰らぬ物入をしたと、寝物語に源助にこぼしてゐる事であらう。[#地から1字上げ](了)
[#地付き]〔生前未発表・明治四十一年五月〜六月稿〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
※生前未発表、1908(明治41)年5〜6月執筆のこの作品の本文を、底本は、土岐善麿氏所蔵啄木自筆原稿によっています。
※「欖の14かく目の「一」が「丶」」は「デザイン差」と見て「欖」で入力します。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月28日作成
青空文庫ファイル:
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