、お定は凝《じつ》と涙の目を押瞑《おしつぶ》つた儘、『阿母《あツばあ》、許してけろ。』と胸の中で繰返した。
 左《さ》う右《か》うしてるうちにも、神経が鋭くなつてゐて、壁の彼方から聞える主人夫婦の声に、若しや自分の事を言やせぬかと気をつけてゐたが、時計が十時を打つと、皆寝て了つた様だ。お定は、若しも明朝寝坊をしてはと、漸々《やうやう》涙を拭つて蒲団を取出した。
 三分心の置洋燈を細めて、枕に就くと、気が少し暢然《ゆつたり》した。お八重さんももう寝たらうかと、又しても友の上を思出して、手を伸べて掛蒲団を引張ると、何となくフワリとして綿が柔かい。郷里で着て寝たのは、板の様に薄く堅い、荒い木綿の飛白《かすり》の皮をかけたのであつたが、これは又源助の家で着たのよりも柔かい。そして、前にゐた幾人の女中の汗やら髪の膩《あぶら》やらが浸みてるけれども、お定には初めての、黒い天鵞絨《ビロウド》の襟がかけてあつた。お定は不図《ふと》、丑之助がよく自分の頬片《ほつぺた》を天鵞絨の様だと言つた事を思出した。
 また降り出したと見えて、蕭《しめや》かな雨の音が枕に伝はつて来た。お定は暫時《しばし》恍乎《うつとり》として、自分の頬を天鵞絨の襟に擦つて見てゐたが、幽かな微笑《ほほゑみ》を口元に漂はせた儘で、何時しか安らかな眠に入つて了つた。

     十

 目が覚めると、障子が既に白んで、枕辺《まくらもと》の洋燈は昨晩《よべ》の儘に点いてはゐるけれど、光が鈍く※[#「虫+慈」、159−下−8]々《じじ》と幽かな音を立ててゐる。寝過しはしないかと狼狽《うろた》へて、すぐ寝床から飛起きたが、誰も起きた様子がない。で、昨日まで着てゐた衣服《きもの》は手早く畳んで、萌黄の風呂敷包から、荒い縞の普通着《ふだんぎ》(郷里《くに》では無論普通に着なかつたが)を出して着換へた。帯も紫がかつた繻子《しゆす》ののは畳んで、幅狭い唐縮緬の丸帯を締めた。
 奥様が起きて来る気配がしたので、大急ぎに蒲団を押入に入れ、劃《しきり》の障子をあけると、
『早いね。』と奥様が声をかけた。お定は台所の板の間に膝をついてお叩頭《じぎ》をした。
 それからお定は吩咐《いひつけ》に随つて、焜炉《こんろ》に炭を入れて、石油を注いで火をおこしたり、縁側の雨戸を繰つたりしたが、
『まだ水を汲んでないぢやないか?』
と言はれて、台所中見廻したけれども、手桶らしいものが無い。すると奥様は、
『それ其処にバケツが有るよ。それ、それ、何処を見てるだらう、此《この》人《しと》は。』と言つて、三和土《たたき》になつた流場の隅を指した。お定は、指された物を自分で指して、叱られたと思つたから顔を赤くしながら、
『これでごあんすか?』と奥様の顔を見た。バケツといふ物は見た事がないので。
『然うとも。それがバケツでなくて何ですかよ。』と稍《やや》御機嫌が悪い。
 お定は、恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》物に水を汲むのだもの、俺には解る筈がないと考へた。
 此家では、「水道」が流場の隅にあつた。
 長火鉢の鉄瓶の水を代へたり、方々雑巾を掛けさせられたりしてから、お定は小路を出て一町程行つた所の八百屋に使ひに遣られた。奥様は葱とキヤベーヂを一個《ひとつ》買つて来いといふのであつたが、キヤベーヂとは何の事か解らぬ。で、恐る/\聞いて見ると、『それ恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]ので(と両手で円を作つて)白い葉が堅く重なつてるのさ。お前の郷里にや無いのかえ。』と言はれた。でお定は、
『ハア、玉菜でごあんすか。』と言ふと、
『名は怎でも可いから早く買つて来なよ。』と急《せ》き立てられる。お定はまた顔を染めて戸外へ出た。
 八百屋の店には、朝市へ買出しに行つた車がまだ帰つて来ないので、昨日の売残りが四種《よいろ》五種《いついろ》列べてあるに過ぎなかつたが、然しお定は、其前に立つと、妙な心地になつた。何とやらいふ菜に茄子が十許り、脹切《はちき》れさうによく出来た玉菜《キヤベーヂ》が五個《いつつ》六個《むつ》、それだけではあるけれ共、野良育ちのお定には此上なく慕《なつ》かしい野菜の香が、仄かに胸を爽かにする。お定は、露を帯びた裏畑を頭に描き出した。ああ、あの紫色な茄子の畝! 這ひ蔓《はびこ》つた葉に地面《つち》を隠した瓜畑! 水の様な暁の光に風も立たず、一夜さを鳴き細つた虫の声!
 萎びた黒繻子の帯を、ダラシなく尻に垂れた内儀に、『入来《いらつ》しやい。』と声をかけられたお定は、もうキヤベーヂといふ語を忘れてゐたので、唯『それを』と指さした。葱は生憎《あいにく》一把もなかつた。
 風呂敷に包んだ玉菜|一個《ひとつ》を、お定は大事
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