》か入つた。二重橋は天子様の御門と聞いて叩頭《おじぎ》をした。日比谷の公園では、立派な若い男と女が手をとり合つて歩いてるのに驚いた。
 須田町の乗換に方角を忘れて、今来た方へ引返すのだと許り思つてるうちに、本郷三丁目に来て降りるのだといふ。お定はもう日が暮れかかつてるのに、まだ引張り廻されるのかと、気が気でなくなつたが、一町と歩かずに本郷館の横へ曲つた時には、東京の道路は訝《をか》しいものだと考へた。
 理髪店に帰ると、源助は黒い額に青筋立てて、長火鉢の彼方に怒鳴つてゐた。其前には十七許りの職人が平蜘蛛の如く匍《へたば》つてゐる。此間から見えなかつた斬髪機《バリカン》が一挺、此職人が何処かに隠し込んで置いたのを見付かつたとかで。お定は二階の風呂敷包が気になつた。
 二人はもう、身体も心も綿の如く疲れきつてゐて、昼頃何処やらで蕎麦を一杯宛食つただけなのに、燈火《あかり》がついて飯になると、唯一膳の飯を辛《やつ》と喉を通した。頭脳《あたま》は※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》としてゐて、これといふ考へも浮ばぬ。話も興がない。耳の底には、まだ轟々たる都の轟きが鳴つてゐる。
 幸ひ好い奉公の口があつたが、先づ四五日は緩《ゆつく》り遊んだが可からうといふ源助の話を聞いて、二人は夕餐《ゆふめし》が済むと間もなく二階に上つた。二人共「疲れた。」と許り、べたりと横に坐つて、話もない。何処かしら非常に遠い所へ行つて来た様な心地である。浅草とか日比谷とかいふ語《ことば》だけは、すぐ近間にある様だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて来なけやならぬ様に思へる。一時間前まで見て来た色々の場所、あれも/\と心では数へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乗や、勧工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠める。足下から鳩が飛んだりする。
 お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見廻して、一町も向うから電車が来ようものなら、もう足が動かぬ。漸《やうや》つとそれを遣り過して、十間も行つてから思切つて向側に駆ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況《ま》して乗つた時の窮屈さ。洋服着た男とでも肩が擦れ/\になると、訳もなく身体が縮んで了つて、些《ちよい》と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乗降、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乗るよりは、山路を三里素足で歩いた方が杳《はる》か優《ま》しだ。
 大都は其凄まじい轟々たる響きを以て、お定の心を圧した。然しお定は別に郷里に帰りたいとも思はなかつた。それかと言つて、東京が好なのでもない。此処に居ようとも思はねば、居まいとも思はぬ。一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、穏《おと》なしいお定は疲れてゐるのだ。たゞ疲れてゐるのだ。
 煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて来たお吉は、明日お湯屋に伴れて行くと言つて、下りて行つた。
 九時前に二人は蒲団を延べた。

 三日目は雨。

 四日目は降りみ降らずみ。九月ももう二十日を過ぎたので、残暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々《しとしと》と廂《ひさし》を濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰気な心を起させる。二人は徒然《つくねん》として相対した儘、言葉少なに郷里の事を思出してゐた。
 午餐《ひるめし》が済んで、二人がまだお吉と共に勝手にゐたうちに、二人の奉公口を世話してくれたといふ、源助と職業《しごと》仲間の男が来て、先様では一日も早くといふから、今日中に遣る事にしたら怎《どう》だと言つた。
 源助は、二人がまだ何にも東京の事を知らぬからと言ふ様な事を言つてゐたが、お吉は、行つて見なけや何日までだつて慣れぬといふ其男の言葉に賛成した。
 遂に行く事に決つた。
 で、お吉は先づお八重、次にお定と、髪を銀杏返しに結つてくれたが、お定は、余り前髪を大きく取つたと思つた。帯も締めて貰つた。
 三時頃になつて、お八重が先づ一人源助に伴なはれて出て行つた。お定は急に淋しくなつて七福神の床の間に腰かけて、小さい胸を犇《ひし》と抱いた。眼には大きい涙が。
 一時間許りで源助は帰つて来たが、先様の奥様は淡白《きさく》な人で、お八重を見るや否や、これぢや水道の水を半年もつかふと、大した美人になると言つた事などを語つた。
 早目に晩餐《ゆふめし》を済まして、今度はお定の番。すぐ近い坂の上だといふ事で、風呂敷包を提げた儘、黄昏時《たそがれどき》の雨の霽間《はれま》を源助の後に跟《つ》いて行つたが、何と
前へ 次へ
全21ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング