中に唯一人の頼りにして、嘗《かつ》て自分等の村の役場に、盛岡から来てゐた事のある助役様の内儀《おかみ》さんよりも親切な人だと考へてゐた。
お吉が二人に物言ふさまは、若し傍《はた》で見てゐる人があつたなら、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に可笑しかつたか知れぬ。言葉を早く直さねばならぬと言つては、先づ短いのから稽古せよと、『かしこまりました。』とか、『行つてらツしやい。』とか、『お帰んなさい。』とか、『左様《さい》でございますか。』とか、繰返し/\教へるのであつたが、二人は胸の中でそれを擬《ま》ねて見るけれど、仲々お吉の様にはいかぬ。郷里《くに》言葉の『然《そ》だすか。』と『左様《さい》でございますか。』とは、第一長さが違ふ。二人には『で』に許り力が入つて、兎角『さいで、ございますか。』と二つに切れる。
『さあ、一つ口に出して行《や》つて御覧なさいな。』とお吉に言はれると、二人共すぐ顔を染めては、『さあ』『さあ』と互ひに譲り合ふ。
それからお吉はまた、二人が余り穏《おと》なしくして許りゐるので、店に行つて見るなり、少許《すこし》街上《おもて》を歩いてみるなりしたら怎だと言つて、
『家の前から昨晩腕車で来た方へ少許行くと、本郷の通りへ出ますから、それは/\賑かなもんですよ。其処の角には勧工場《くわんこうば》と云つて何品《なん》でも売る所があるし、右へ行くと三丁目の電車、左へ行くと赤門の前――赤門といへば大学の事《こつ》てすよ、それ、日本一の学校、名前位は聞いた事があるんでせうさ。何《なあ》に、大丈夫気をつけてさへ歩けば、何処まで行つたつて迷児になんかなりやしませんよ。角の勧工場と家の看板さへ知つてりや。』と言つたが、『それ、家の看板には恁う書いてあつたでせう。』と人差指で畳に「山田」と覚束なく書いて見せた。『やまだ[#「やまだ」に傍点]と読むんですよ。』
二人は稍得意な笑顔をして頷《うなづ》き合つた。何故なれば、二人共尋常科だけは卒《を》へたのだから、山の字も田の字も知つてゐたからなので。
それでも仲々|階下《した》にさへ降り渋つて、二人限になれば何やら密々《こそこそ》話合つては、袂を口にあてて声立てずに笑つてゐたが、夕方近くなつてから、お八重の発起で街路《そと》へ出て見た。成程大きなペンキ塗の看板には「山田理髪店」と書いてあつて、花の様なお菓子を飾つたお菓子屋と向ひあつてゐる。二人は右視左視《とみかうみ》して、此家忘れてはなるものかと見廻してると、理髪店《とこや》の店からは四人の職人が皆二人の方を見て笑つてゐた。二人は交代《かはるがはる》に振返つては、もう何間歩いたか胸で計算《かんじやう》しながら、二町許りで本郷館の前まで来た。
盛岡の肴町位だとお定の思つた菊坂町は、此処へ来て見ると宛然《まるで》田舎の様だ。あゝ東京の街! 右から左から、刻一刻に満干《さしひき》する人の潮《うしほ》! 三方から電車と人とが崩《なだ》れて来る三丁目の喧囂《けんかう》は、宛《さな》がら今にも戦が始りさうだ。お定はもう一歩も前に進みかねた。
勧工場は、小さいながらも盛岡にもある。お八重は本郷館に入つて見ないかと言出したが、お定は『此次にすべす。』と言つて渋つた。で、お八重は決しかねて立つてゐると、車夫《くるまや》が寄つて来て、頻《しき》りに促す。二人は怖ろしくなつて、もと来た路を駆け出した。此時も背後《うしろ》に笑声が聞えた。
第一日は恁《か》くて暮れた。
九
第二日目《ふつかめ》は、お吉に伴れられて、朝八時頃から見物に出た。
先づ赤門、『恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんたな》学校にも教師《せんせ》ア居《え》べすか?』とお定は囁やいたが、『居《え》るのす。』と答へたお八重はツンと済してゐた。不忍の池では海の様だと思つた。お定の村には山と川と田と畑としか無かつたので。さて上野の森、話に聞いた銅像よりも、木立の中の大仏の方が立派に見えた。電車といふものに初めて乗せられて、浅草は人の塵溜《ちりため》、玉乗に汗を握り、水族館の地下室では、源助の話を思出して帯の間の財布《かみいれ》を上から抑へた。人の数が掏摸《すり》に見える。凌雲閣には余り高いのに怖気《おぢけ》立つて、遂々《たうたう》上らず。吾妻橋に出ては、東京では川まで大きいと思つた。両国の川開きの話をお吉に聞かされたが、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事をするものやら遂に解らず了ひ。上潮に末広の長い尾を曳く川蒸汽は、仲々異なものであつた。銀座の通り、新橋のステイシヨン、勧工場《くわんこうば》にも幾度《いくたび
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