ア何だか知《おべ》だすか?』
『恵比須大黒だべす。』
二人は床の間に腰掛けたが、
『お定さん、これア何だす?』と図中の人を指さす。
『槌持つてるもの、大黒様だべアすか。』
『此方《こつち》ア?』
『恵比須だす。』
『すたら、これア何だす?』
『布袋様す、腹ア出てるもの。あれ、忠太|老爺《おやぢ》に似たぜ。』と言ふや、二人は其忠太の恐ろしく肥つた腹を思出して、口に袂をあてた儘、暫しは子供の如く笑ひ続けてゐた。
階下《した》では裏口の戸を開ける音や、鍋の音がしたので、お八重が先に立つて階段を降りた。お吉はそれと見て、
『まあ早いことお前さん達は。まだ/\寝《やす》んでらつしやれば可いのに。』と、笑顔を作つた。二人は勝手への隔《へだて》の敷居に両手を突いて、『お早エなつす。』を口の中だけに言つて挨拶をすると、お吉は可笑しさに些《ちよつ》と横向いて笑つたが、
『怎もお早う。』と晴やかに言ふ。
よく眠れたかとか、郷里《くに》の夢を見なかつたかとか、お吉は昨晩《ゆうべ》よりもズツト忸々《なれなれ》しく種々《いろいろ》な事を言つてくれたが、
『お前さん達のお郷里《くに》ぢや水道はまだ無いでせう?』
二人は目を見合せた。水道とは何の事やら、其話は源助からも聞いた記憶がない。何と返事をして可いか困つてると、
『何でも一通り東京の事知つてなくちや、御奉公に上つても困るから、私と一緒に入来《いらつ》しやい。教へて上げますから』と、お吉は手桶を持つて下り立つた。『ハ。』と答へて、二人も急いで店から自分達の下駄を持つて来て、裏に出ると、お吉はもう五六間|先方《むかう》へ行つて立つてゐる。
何の事はない、郵便函の小さい様なものが立つてゐて、四辺《あたり》の土が水に濡れてゐる。
『これが水道ツて言ふんですよ。可《よ》ござんすか。それで恁《か》うすると水が幾何《いくら》でも出て来ます。』と、お吉は笑ひながら栓を捻《ねぢ》つた。途端に、水がゴウと出る。
『やあ。』とお八重は思はず驚きに声を出したので、すぐに羞《はづ》かしくなつて、顔を火の様にした。お定も口にこそ出さなかつたが、同じ『やあ。』が喉元まで出かけたつたので、これも顔を紅くしたが、お吉は其中に一杯になつた桶と空なのと取代へて、
『さあ、何方《どなた》なり一つ此栓を捻つて御覧なさい。』と、宛然《さながら》小学校の先生が一年生に教へる様な調子。二人は目と目で互に譲り合つてゐて、仲々手を出さぬので、
『些《ちつ》とも怖《こは》い事はないんですよ。』とお吉は笑ふ。で、お八重が思切つて、妙な手つきで栓を力委せに捻ると、特別な仕掛がある訳でないから水が直ぐ出た。お八重は何となく得意になつて、軽く声を出して笑ひながら、お定の顔を見た。
帰りはお吉の辞するも諾《き》かず、二人で桶を一つ宛軽々と持つて、勝手口まで運んだが、背後《うしろ》からお吉が、
『まあお前さん達は力が強い事!』と笑つた。此語の後に潜んだ意味などを、察する程に怜悧《かしこ》いお定ではないので、何だか賞められた様な気がして、密《そつ》と口元に笑を含んだ。
それから、顔を洗へといはれて、急いで二階から浅黄の手拭やら櫛やらを持つて来たが、鏡は店に大きいのがあるからといはれて、怖る/\種々の光る立派な道具を飾り立てた店に行つて、二人は髪を結ひ出した。間もなく、表二階に泊つてる職人が起きて来て、二人を見ると、『お早う。』と声をかけて妙な笑を浮べたが、二人は唯もうきまりが悪くて、顔を赤くして頭を垂れてゐる儘、鏡に写る己が姿を見るさへも羞しく、堅くなつて※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒《そそくさ》に髪を結つてゐたが、それでもお八重の方はチヨイ/\横※[#「目+扮のつくり」、第3水準1−88−77]《よこめ》を使つて、職人の為る事を見てゐた様であつた。
すべてが恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》具合で、朝餐《あさめし》も済んだ。其朝餐の時は、同じ食卓《ちやぶだい》に源助夫婦と新さんとお八重お定の五人が向ひ合つたので、二人共三膳とは食へなかつた。此日は、源助が半月に余る旅から帰つたので、それ/″\手土産を持つて知辺《しるべ》の家を廻らなければならぬから、お吉は家《うち》が明けられぬと言つて、見物は明日に決つた。
二人は、不器用な手つきで、食後の始末にも手伝ひ、二人限で水汲にも行つたが、其時お八重はもう、一度経験があるので上級生の様な態度をして、
『流石は東京だでヤなつす!』と言つた。
かくて此日一日は、殆んど裏二階の一室で暮らしたが、お吉は時々やつて来て、何呉となく女中奉公の心得を話してくれるのであつた。お定は、生中《なまなか》礼儀などを守らず、つけ/\言つてくれる此女を、もう世の
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