御座え。』

 此日は、二人にとつて此上もない急がしい日であつた。お定は、水汲から帰ると直ぐ朝草刈に平田野《へいだの》へ行つたが、莫迦《ばか》に気がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無数の露の美しさ。秋草の香が初蕈《はつだけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌《とがま》の動く毎に、サツサツと音して臥《ね》る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往来《ゆきき》する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より余程長くかゝつた。
 朝草を刈つて来てから、馬の手入を済ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り残してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前《ひるまへ》には刈り了へて、弟と共に黒馬《あを》と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。
 母は裏の物置の側《わき》に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打残しの麻糸を砧《う》つてゐる。三時頃には父も田廻りから帰つて来て、厩の前の乾秣場《やたば》で、鼻唄ながらに鉈《なた》や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう気がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。
 大工の家へ裏伝ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出来上つて、押入れの隅に隠してあつた。其処へ源助が来て、明後日の夕方までに盛岡の停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其処へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。
 それからお八重と二人家へ帰ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い炉端に一人|踏込《ふんご》んで、莨を吹かしてゐる。
『父爺《おやぢ》や。』とお定は呼んだ。
『何しや?』
『明日盛岡さ行つても可えが?』
『お八重ツ子どがえ?』
『然《さ》うしや。』
『八幡様のお祭礼《まつり》にや、まだ十日もあるべえどら。』
『八幡様までにや、稲刈が始るべえな。』
『何しに行ぐだあ?』
『お八重さんが千太郎さま宅《とこ》さ用あつて行くで、俺も伴《つ》れてぐ言ふでせア。』
『可《え》がべす、老爺《おやぢ》な。』とお八重も喙《くち》を容れた。
『小遣銭があるがえ?』
『少許《すこし》だばあるども、呉《け》えらば呉《け》えで御座《ごぜ》え。』
『またお八重ツ子がら、御馳走《ごツちよう》になるべな。』
 と言つて、定次郎は腹掛から五十銭銀貨一枚出して、上框《あがりかまち》に腰かけてゐるお定へ投げてよこした。
 お八重はチラとお定の顔を見て、首尾よしと許り笑つたが、お定は父の露疑はぬ様を見て、穏《おとな》しい娘だけに胸が迫つた。さしぐんで来る涙を見せまいと、ツイと立つて裏口へ行つた。

     五

 夕方、一寸でも他所《よそ》ながら暇乞に、学校の藤田を訪ねようと思つたが、其《その》暇《ひま》もなく、農家の常とて夕餉は日が暮れてから済ましたが、お定は明日着て行く衣服を畳み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寝室《ねま》にしてゐる四畳半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて来て、さり気ない顔をして入つたが、
『明日着て行ぐ衣服《きもの》すか?』と、態《わざ》と大きい声で言つた。
『然うす。明日着て行くで、畳み直してるす。』と、お定も態と高く答へて、二人目を見合せて笑つた。
 お八重は、もう全然《すつかり》準備《したく》が出来たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して来たが、此家《ここ》の入口の暗い土間に隠して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萌黄《もえぎ》の大風呂敷を拡げて、手廻りの物を集め出したが、衣服といつても唯《たつた》六七枚、帯も二筋、娘心には色々と不満があつて、この袷は少し老《ふ》けてゐるとか、此袖口が余り開き過ぎてゐるとか、密々話《ひそひそばなし》に小一時間もかゝつて、漸々《やうやう》準備が出来た。
 父も母もまだ炉辺に起きてるので、も少許《すこし》待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は些《ちよつ》と躊躇してから、立つと明《あかり》とりの煤けた櫺子《れんじ》に手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、
『この人《しと》アまあ、可《え》え工夫してること。』と笑つた。お定も心持顔を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其処から戸外《そと》へ吊り下された。格子は元の通りに直された。
 二人はそれから権作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷かな夜風が、耳を聾する許りな虫の声を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう
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