裏の入口を開けると、厩では乾秣《やた》を欲しがる馬の、羽目板を蹴る音がゴト/\と鳴る。大桶を二つ担いで、お定は村端《むらはづれ》の樋の口といふ水汲場に行つた。
 例《いつ》になく早いので、まだ誰も来てゐなかつた。漣《さざなみ》一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤《ちりば》めた黎明《しののめ》の空が深く沈んでゐた。清洌な秋の暁の気が、いと冷かに襟元から総身に沁む。叢にはまだ夢の様に虫の音がしてゐる。
 お定は暫時《しばし》水を汲むでもなく、水鏡に写つた我が顔を瞶めながら、呆然《ぼんやり》と昨夜《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎して其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》所まで行く気になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本当だ。恁《か》うして毎朝水汲に来るのが何より楽しい。話の様な繁華な所だつたら、屹度恁ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張り桶をぶら/\担いで来るが、寝くたれ髪のしどけなさ、起きた許りで脹《はれ》ぼつたくなつてゐる瞼さへ、殊更|艶《なまめ》かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然した頭をハツと明るくした。
『お八重さん、早えなツす。』
『お前《めえ》こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面に下した。
『あゝ、まだ虫ア啼いてる!』と、お八重は少し顔を歪めて、後毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。
『決めたす、お八重さん。』
『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、俺一人|奈何《どう》すべと思つてだつけす。』
『だつてお前怎しても行くべえす?』
『お前も決めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は軽く笑つたが、『そだつけ、大変だお定さん、急がねえばならねえす。』
『怎してす?』
『怎してつて、昨晩《ゆべな》聞いたら、源助さん明後日《あさつて》立つで、早く準備《したく》せツてゐたす。』
『明後日?』と、お定は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
『明後日!』と、お八重も目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。
 二人は暫し互《かた》みの顔を打瞶《うちまも》つてゐたが、『でヤ、明日盛岡さ行《い》がねばならねえな。』と、お定が先づ我に帰つた。
『然《さ》うだす。そして今夜《こんにや》のうちに、衣服《きもの》だの何包んで、権作|老爺《おやぢ》さ頼まねばならねえす。』
『だらハア、今夜《こんにや》すか?』と、お定は再《また》目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。
 左《さ》う右《か》うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて来たので、二人はまだ何か密々《ひそひそ》語り合つてゐたが、軈《やが》て満々《なみなみ》と水を汲んで担ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の権作が家へ行つて、
『老爺《おやぢ》ア起きたすか?』と、表から声をかけた。
『何時まで寝てるべえせア。』と、中から胴間声がする。
 二人は目を見合して、ニツコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車|追《ひき》の老爺《おやぢ》は丁度厩の前で乾秣《やた》を刻むところであつた。
『明日《あした》盛岡さ行《い》ぐすか?』
『明日がえ? 行《え》ぐどもせア。権作ア此|老年《とし》になるだが、馬車|曳《ふ》つぱらねえでヤ、腹減つて斃死《くたば》るだあよ。』
『だら、少許《すこし》持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』
『何程《なんぼ》でも可《え》えだ。明日ア帰《けえ》り荷だで、行《え》ぐ時ア空馬車|曳《ふ》つぱつて行《え》ぐのだもの。』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に沢山《たんと》でも無えす。俺等《おら》も明日盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』
『そんだら、ハア、お前達《めえだち》も馬車さ乗つてつたら可がべせア。』
 二人は又目を見合して、二言三言|諜《しめ》し合つてゐたが、
『でア老爺《おやぢ》な、俺等《おら》も乗せでつて貰ふす。』
『然うして御座《ごぜ》え。唯、巣子《すご》の掛茶屋さ行つたら、盛切酒《もりきりざけ》一杯《いつぺえ》買ふだアぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ツ子も行ぐのがえ?』
 お定は一寸|狼狽《うろた》へてお八重の顔を見た。お八重は再《また》笑つて『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人《としより》だで可えが、黒馬《あを》の奴ア怠屈《てえくつ》しねえで喜ぶでヤ。だら、明日《あした》ア早く来て
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